第18話
朝露のまだ乾かないうちに、俺は籠を提げて畑へ下りた。夏の畑は、朝のうちが勝負だ。日が高くなる前に、実った分を摘んでしまうに限る。
畝の間に立って、俺は思わず唸った。トマトが枝もたわわに赤く熟れ、ナスは黒紫にてらてらと照っている。キュウリは葉の陰でむっちりと太り、オクラは天を突くように実を立て、ピーマンは肉厚の緑を重そうにぶら下げていた。
もぎるそばから、籠がずしりと重くなっていく。ヘタの際を指で押すと、どれも張りきった弾力で押し返してくる。ひとつ摘んでは、次の実がもう手を伸ばして待っている。
畑を一巡しただけで、籠はもう山盛りになっていた。
「……採れすぎだろ、これ」
俺は籠を抱え直して、ひとりで笑ってしまった。植えたときはひょろひょろの苗だったのに、この山の土は、いったいどれだけ気前がいいんだ。
春に来たばかりの頃を思うと、我ながら遠くまで来たものだ。あの頃は米すら満足に炊けず、かまどの火加減にも四苦八苦していた。それが今や、畝を立て、苗を植え、こうして両手に余る夏野菜を抱えている。
包丁の使い方も、火の番も、土の触り方も、この一夏でずいぶん体に馴染んだ。誰に習ったわけでもない。ただ毎日、目の前の一つずつを片付けてきただけだ。
その積み重ねが、この重たい籠なんだと思うと、腕の疲れも悪くなかった。
◇◇◇
問題は、この山を、どう食うかだ。
台所に籠を下ろし、俺は腕まくりをした。せっかくのもぎたてだ。凝った料理はいらない。素材の力を、まっすぐ皿に載せてやればいい。
まずはナス。かまどの残り火に網を渡し、丸ごと転がす。
しばらくすると、皮の焼ける、ぱちっ、ぱちっという小さな音が立ちはじめた。焦げていく皮の、香ばしくて甘い匂いが、台所いっぱいに立ちのぼる。
真っ黒になった皮をむくと、中から現れたのは、湯気を上げる乳白色の果肉だ。菜箸でつまむと、とろりと崩れそうにやわらかい。生姜醤油をひと垂らしして頬張れば、香ばしさの奥から、ナスそのものの澄んだ甘みがじゅわりと広がった。
「……あぶないな、これ。ご飯が止まらなくなるやつだ」
次は揚げびたし。オクラとピーマンを素揚げにして、熱いうちに、鰹と昆布でひいた出汁へ放り込む。じゅっと油の跳ねる音のあとに、出汁のしみ込んでいく気配がした。
揚げ油の温度が、今日はやけに素直だった。菜箸の先で泡の立ち方を確かめるまでもなく、油のほうがちょうどいい頃合いを教えてくれる。腕が上がったのか、それとも、ただ調子がいいだけか。
冷ましているあいだに、緑がいっそう深く艶を増していく。ひと切れ口に運ぶと、じゅわっとしみ出した出汁が、油のコクと野菜の甘みを一度に連れてきた。
キュウリは、包丁の腹で叩いて割った。ばきっと小気味いい音がして、断面がぎざぎざに裂ける。塩をふって軽くもむと、みるみる水気が滲んで、しゃきっとした歯ごたえだけが残った。
つまんで齧ると、口の中で青い香りが弾ける。井戸で冷やしておいたから、芯までひんやりと冷たい。
最後にトマト。皮を湯むきして、冷水にとる。つるりとむけた実は、灯りを吸って、宝石みたいに透きとおって見えた。
薄く塩をあて、オリーブ油をひと回し。ひと切れ口に入れると、冷たい果汁が、甘さと酸っぱさをいっぺんに連れてくる。ついさっきまで枝についていた実かと思うと、少し笑えてくる。
気づけば、小さなちゃぶ台の上が、緑と赤と紫で埋まっていた。焼きナス、揚げびたし、キュウリの塩もみ、トマトの冷製、それにかまどで炊いた白飯。
全部、この山で採れて、この手で作ったものだ。
冷えた麦茶で喉を鳴らし、あちこちに箸を伸ばす。香ばしいの、出汁のしみたの、しゃきしゃきの、冷たいの——ひと口ごとに、夏がまるごと口の中で入れ替わっていく。
「……うまい。我ながら、上出来だ」
腹がはち切れそうになって、俺はようやく箸を置いた。それでも、籠にはまだ半分以上、野菜が残っている。
一人で食うには、どう考えても多すぎる。かといって、腐らせるのは、育ててくれた土に申し訳ない。
嬉しい悲鳴、というやつだ。持て余すほど実るなんて、去年の俺には想像もつかなかった。
そういえば、直売所の常連さんも、うちの野菜をずいぶん気に入ってくれているらしい。置いた端から消えて、毎度きっちり対価が返ってくる。
「ただの家庭菜園の野菜なんだけどな。そんなに喜んでもらえるなら、作りがいもあるってもんだ」
ふと、思いついた。これだけ採れて、喜んでくれる相手もいるなら——あの棚、もっとちゃんとやってみるのはどうだろう。
今はただ、余ったものを並べているだけだ。でも、せっかく律儀に通ってくれる人がいる。もう少し数を揃えて、見栄えよく並べてやれば、きっと喜んでくれるはずだ。
「一人じゃ食べきれないしな。直売所、もっとちゃんとやろうかな。せっかく常連さんもいるんだし」
声に出してみると、なんだか楽しくなってきた。暮らしの片手間の余り物が、いつのまにか、人に手渡すものになりかけている。
窓の外では、夏の陽が畑を白く照らしていた。明日もきっと、籠は重くなる。それが、今の俺には、たまらなく嬉しかった。
◇◇◇
夕餉のあと、まだ湯気の名残がただよう台所の隅で、まるい苔玉がぽふりと弾んだ。土と植物の精霊、コロだ。
「あるじ、いっぱい食べてくれたなの」
まんまるの目を細めて、コロはうれしそうに揺れた。今年の畑は、コロがせっせと土を肥やしてやったのだ。ぷりぷりのトマトも、つやつやのナスも、みんなあるじが喜んでくれた。
かまどのそばでは、赤いとかげ——火の精霊エンが、消えかけた残り火の上でぱちぱち跳ねている。
「見たかよ、オレの火加減! 揚げびたし、カラッと揚がってたろ!」
得意げに言うと、エンは立ちのぼる湯気にじゃれつこうと、ふわりと飛び込みかけた。
「エン、あついのっ。やけどするなの」
「へーきへーき。……ってあちっ!」
二匹でころころ笑っていると、ちゃぶ台のほうから、あるじの声がした。
「一人じゃ食べきれないしなあ」
困ったような、それでいて幸せそうなその呟きに、コロとエンは顔を見合わせた。柱の陰でも、水がめの底でも、名もない光がそわそわ瞬いている。
「あるじ、うれしそうなの」
「だろ? だからまた、いっぱい実らせようぜ!」
まだ二匹の姿は、あるじには見えない。それでも台所の湯気は、いつまでも、ほかほかとあたたかかった。




