第17話
夏の日中の暑さが嘘のように、日が落ちると山の空気はすっと涼しくなる。俺は縁側に古いランタンをひとつ吊るして、夜なべ仕事に取りかかった。
昼のいちばん暑い時間は家の中でだらだら過ごし、こうして涼しくなってから細かい手仕事を片付ける。この時間割が、夏の山では存外しっくりくるのだった。
今夜の宿題は二つ。傷んできた直売所の棚板の面取りと、鉈や鎌の刃の手入れだ。
まずは棚板を膝に乗せ、鉋をひと撫でする。しゅっ、と気持ちのいい音がして、薄い削りくずが竹の皮みたいにくるりと丸まった。木の断面から、青くて甘い匂いがふわりと立つ。
昼間は汗みずくで運んだ材木も、夜の手仕事だと妙にしっとり手に馴染む。ランタンの明かりで木目を透かしながら、角をほんの少し落としていく。
「まあ、うちの棚だからな。六十点で御の字だ」
こんな山奥の、間に合わせの棚である。手をかけたところで、見るのはどうせ俺ひとりなんだけどな。それでも角を丸めておけば、取りに来る誰かが手を引っかけずに済む。
刃物のほうは、砥石を水に浸してからだ。鎌の刃を寝かせ、しゃり、しゃりと滑らせる。番茶を淹れたときの湯気みたいに、砥汁が白く濁っていくのを眺めるのが、俺はわりと好きだった。
元いた会社では、こんなふうに手だけを動かして頭を空っぽにできる時間なんて、ついぞなかった。段取りだの納期だのを頭の隅で回し続けて、気づけば終電。あの頃を思い出しかけて、軽く首を振る。
過ぎたことだ。今は、虫の声しか急かすもののない夜が、目の前にある。
◇◇◇
ふと手を止めて顔を上げると、庭のほうがやけに賑やかだった。
草むらのあちこちで、蛍がひとつ、ふたつと、黄緑の光を灯しては消している。せせらぎに近い一角では、それが十を超えて瞬いていた。明滅の間隔が、まるで示し合わせたようにゆっくり揃っている。
空を仰げば、山の稜線のすぐ上に、白々とした月が昇っていた。庭木の影がくっきりと地面に落ちて、昼とは別の輪郭で世界を描き直している。
風が渡るたびに、梢がさらさらと鳴り、どこかで沢の水音がした。虫の声は幾重にも重なって、まるで山ぜんたいがひとつの楽器みたいだ。
「夜が、こんなに気持ちいいなんてな」
都会の夜は、看板と信号でいつも半端に明るくて、静けさなんてどこにもなかった。ここの夜は、暗さも音も、そっくりそのまま俺のものだ。
冷やしておいた麦茶をひと口飲んで、また手仕事に戻ろうとした、そのときだった。
庭の隅、直売所の据わったあたりに、蛍とは違う光が、ふわりと浮かんでいるのに気づいた。
目を凝らす。ひとつじゃない。四つある。
しかも、色が違った。ぽっと赤いのがひとつ、澄んだ青がひとつ、若葉みたいな緑がひとつ、それから、土をそのまま灯したような、ぬくもりのある色がひとつ。
「……蛍にしては、動きが変だな」
蛍なら、明滅しながら気ままに漂う。だがその四つは、消えることなく灯りっぱなしで、ふわ、ふわ、と高さを変えながら、互いの間合いを保って浮いている。
「それに、色が四色ある。蛍って、こんなに色とりどりだったか?」
俺は鎌を置いて、そろりと縁側から身を乗り出した。驚かせて逃がすのも惜しい、という気分だった。光は逃げるでもなく、消えるでもなく、ただそこで、のんびりと上下している。
しばらく眺めていて、俺はようやく妙なことに気づいた。四つの光が、少しずつ、こちらへ近づいてきているのだ。
赤いのが先頭を切って、青と緑がそれに続き、土色のがのっそり最後を追う。まるで順番でも決まっているみたいに、隊列を崩さないまま、縁側のほうへ。
やがて四つは、俺の手元の――削りかけの棚板と、水を張った砥石桶のまわりに、ふわりと集まってきた。
赤い光は砥石桶の上で、湯気に当たるのが嬉しいみたいに小さく揺れる。青いのは水面すれすれをぷかぷかと。緑のは削りくずの山に、土色のは棚板の木目の上に、それぞれ寄り添うように落ち着いた。
息を殺して、俺はその光の輪の真ん中にいた。手のひらを近づけても、光は逃げない。ほんのり温かい気さえする。
「……なんだ、これ」
声が、我ながら間抜けに掠れた。
「懐かれてる……のか?」
虫でも小鳥でも、餌があるから寄ってくる。だがこの光は、俺の手元の――削りかけの木と、砥ぎかけの刃物に、まっすぐ集まってきた。仕事そのものを、覗き込みに来たみたいに。
「俺、何に好かれてるんだ?」
答えてくれるものは、もちろんない。虫の声と、沢の音と、四つの色の光だけが、月夜の縁側にそっと灯っている。
こわいとは、不思議と思わなかった。それどころか、賑やかな手元がなんだかくすぐったくて、俺は小さく笑ってしまった。
まあ、いいか。せっかくの見物客だ。逃がすのも野暮というものだろう。
俺はもう一度鉋を握り、光たちの見ている前で、棚板の角をそっと撫でた。しゅっ、と鳴った削りの音に、四つの光が、嬉しそうにふるりと瞬いた気がした。
◇◇◇
削りかけの棚板の上で、四つの光は、そっと身を寄せ合っていた。
いけない、と分かってはいる。まだ姿を見せてはいけない。そのときは、もっと先なのだ。それでも、大好きなあるじが夜なべ仕事をしていると気づいたら、じっとなんて、していられなかった。
「だって、あるじ、たのしそうなんだもの……つい、そばにきちゃうの」
苔玉のコロが、削りくずの山でもぞもぞと言い訳した。
「わたくしたち、少し近づきすぎですわ。……でも、あと少しだけ」
スイが砥石桶の水面すれすれで、うっとりと揺れる。
「なあ、いま『懐かれてんのか』って言ったよな! あぶねぇ、バレそうだったぜ!」
エンは嬉しさを持て余して、尻尾の火をぱちぱちと爆ぜさせた。
「……フン。もうすぐ、だな」
棚板の木目の上で、モクがぼそりと呟いた。あるじが、こちらへ手のひらを伸ばした、あの瞬間。目が合いそうで、合わなかった。もどかしくて、幸せで、胸のあたりがきゅうっとなる。
声は届かない。姿も、まだ見えない。それでも四つの光は、確かに感じていた。あるじが、もうすぐ自分たちに気づく。その予感に、四色の光は、揃ってふるりと高鳴った。




