第16話
この山に来たのは、まだ新緑が眩しい晩春のことだった。あれから梅雨が明け、気づけば畑の緑は見上げるほどに茂って、朝から蟬がやかましく鳴いている。
季節は、すっかり夏本番だ。
都会にいた頃の夏は、冷房の効いたオフィスと、外に出た瞬間に襲ってくる熱気の落差に、毎年うんざりさせられたものだった。ここには、そもそもエアコンがない。
最初はどうなることかと覚悟していたが、暮らしてみると、案外なんとかなるものだった。
朝いちばんに、俺は井戸の水を汲んで、庭先と土間の三和土に打ち水をする。土がじゅっと湿った匂いを立てて、水を撒いたそばから、あたりの空気がひんやりと下がっていくのが分かる。
軒下には、麓のホームセンターで買ってきたすだれを吊るした。強い西日を編み目でやわらげ、風だけを通してくれる。
縁側には、これも町で見つけた南部鉄の風鈴をひとつ。時おり山から下りてくる風を拾って、ちりん、と澄んだ音を鳴らす。
目と耳から涼をとる。昔の人の知恵は、理屈にかなっていて面白い。
エアコンなら、スイッチひとつで室温を数字どおりに下げられる。それに慣れた身からすると、水を撒き、簾を吊り、風を待つやり方は、ずいぶん回りくどい。
だが、この回りくどさが、俺には妙にしっくりきた。手間をかけたぶんだけ、涼しさがちゃんと自分のものになる気がする。
「エアコンなしでも、意外と涼しく過ごせるもんだな」
誰にともなく呟いて、俺は縁側にあぐらをかいた。
というより、この家は不思議と涼しい。外は油照りで、庭に立てば首筋を汗が伝うのに、一歩土間に入ると、すっと汗が引く。
古民家は天井が高くて、風の抜け道がよくできているんだろう。買ったときはただのボロ家だと思っていたが、昔の職人はたいしたものだ。
まあ、風通しがいいのは、ありがたい話である。
◇◇◇
昼が近づいて、腹が減ってきた。
こういう暑い日の楽しみが、ひとつある。俺は井戸端へ回り、朝から冷やしておいた竹籠を、つるべの縄でそろりと引き上げた。
籠の中では、真っ赤に熟れたトマトが数個、澄んだ湧き水にひたって、ひんやりと汗をかいている。畑の井戸水は、真夏でも指がしびれるほど冷たい。
ひとつ手に取ると、青くさいような、甘いような、夏そのものの匂いが鼻先をかすめた。
塩も包丁もいらない。そのまま、がぶりとかじる。
皮がぷつっと弾けた瞬間、冷たい果汁がどっとあふれ出して、口の中いっぱいに広がった。芯まで冷えた実は、歯を立てるたびに、濃い甘みと、ほんのり青い香りをこぼしていく。
喉を鳴らして飲み下すと、体の火照りが、内側からすっと引いていった。
「……効くなあ、これは」
冷やしトマトの相棒は、井戸で冷やした麦茶だ。かまどで香ばしく煎じたやつを、大ぶりのコップになみなみと注ぐ。
ひと息に呷ると、香ばしさと、かすかな甘みが喉を駆け抜けて、汗ばんだ体の隅々まで染みわたっていく。
冷房で無理やり冷やす夏より、こっちのほうが、よっぽど体にいい気がする。六十点主義の俺には、ちょうどいい塩梅の涼しさだ。
◇◇◇
昼飯のあと、いつものように直売所を覗きに行った。
朝並べておいたキュウリとトマトは、きれいに消えている。かわりに料金箱の中には、対価のコインが一枚、ちょこんと収まっていた。
つまみ上げて、俺は思わず陽にかざした。
いつもの金貨より、ひとまわり大きくて、ずっしりと重い。表には、翼を広げた獅子のような、やたらと凝った紋章が刻まれている。細工の細かさが、これまでのものとは、明らかに格が違った。
どこかの家紋か、紋章のようにも見える。素人目にも、相当に立派な代物だ。
「だんだん、お得意様が偉くなってる気がするな」
俺はコインを裏返し、まじまじと眺めた。
「……気のせいか」
最初は野菜のかわりに素朴な金貨だったのが、このごろは、こんな豪勢なものまで置かれるようになってきた。律儀な常連さんの中に、よほど羽振りのいい人でも混じったのかもしれない。
まあ、詮索しても始まらない。俺はコインを小物入れにしまうことにした。
どうせ使い道もない、珍しい外国コインだ。ほかのと一緒に並べておけば、そのうち立派なコレクションになる。
風鈴が、ちりん、と鳴った。西日はまだ高いが、山の夕暮れは、案外早い。
今日も一日、よく働いて、よく食った。明日は、そろそろ茄子が採れごろだろう。
そう思うと、この暑さも、なかなか悪くない気がしてくるのだった。
◇◇◇
土間の水がめの底で、半透明のからだが、ぷかりと揺れた。
水面のように光をはじく、小さなスライム。水と浄化の精霊、スイである。
あるじは今日も、汗をかきながら井戸の水を汲み、庭に打ち水をして、簾を吊っていた。せっかく暑さに弱いあるじのために、スイが家じゅうの空気を、こっそり冷やしてあげているというのに。
「まったく、あるじったら」
少しだけ得意げに、スイはぷるんと身を震わせた。
外の土間へ入った瞬間、すっと汗が引くのも。油照りの昼に、家の奥だけひんやりと涼しいのも。ぜんぶ、スイが水の気を巡らせているおかげなのだ。
「風通しがいい、だなんて。ふふ、まだお気づきになりませんの」
それでも、悪い気はしなかった。あるじが涼しい顔で縁側にあぐらをかいて、冷やしたトマトをおいしそうにかじる。その横で、大好きなあるじを暑さから守ってさしあげられる。それだけで、スイの胸は、しゃんと張るのだった。
「もうしばらく、わたくしにおまかせくださいまし」
声はあるじには届かない。届かないけれど、水がめの水は、いっそう澄んで、ひんやりと澄みわたっていった。




