第178話
出発の朝は、拍子抜けするほど良く晴れた。
三上の荷物は、来た時と同じボストンバッグひとつだ。ただ、詰め方が違う。土産に持たせた干し野菜と味噌の小瓶が加わって、口がぱんぱんに膨らんでいる。玄関先でそれを軽トラの荷台に積みながら、俺は妙にしんみりした気分になっていた。
「忘れ物、ないか」
「大丈夫。……というか、来た時より荷物が増えてる。こんなにもらって、よかったのか?」
「畑のもんは放っといても増えるからな。遠慮すんな」
三上が苦笑して、膨らんだバッグを叩いた。その顔を見て、俺はあらためて思う。ずいぶん、変わったものだ。
助手席に乗り込んだ三上は、来た時とはまるで別人だった。青白かった頬に血の気が差し、目の下の隈はきれいに消えている。背筋がしゃんと伸びて、シートに深くもたれかかる余裕まである。
数日前、改札からくたびれ果てた顔でぬっと現れた男と、同じ人間とは思えない。
エンジンをかけ、山道をゆっくり下る。窓を開けると、朝の涼しい風と蝉の声が流れ込んできた。三上は目を細めて、流れていく緑をぼんやり眺めている。
「なあ」
と、三上がふいに口を開いた。
「俺、来た時、ここの景色ちゃんと見てなかったんだよな。下向いてばっかりで」
「今は見えてるならいいだろ」
俺が言うと、三上は「違いない」と笑った。その笑い方も、来た時よりずっと軽い。
「正直さ、来る前は、山なんか行ってどうすんだって思ってたんだよ」
三上が窓の外に目をやったまま、ぽつぽつと続ける。
「でも、飯食って、風呂入って、畑いじって、ぼーっとしてるうちにさ。……なんか、勝手にほどけてった。自分でもよく分かんないんだけど」
「難しく考えなくていいんだよ、そういうのは」
俺はハンドルを切りながら答えた。理屈で疲れが取れるなら、誰も苦労はしない。腹が減ったら食う、眠くなったら寝る。それを何日か続けただけの話だ。
「お前がそう言うと、説得力あるわ。……昔はもっと理屈っぽかったのにな」
言われて、俺は少し笑った。まあ、山に来てから、いろいろ変わったのは自分でも分かる。
肩のあたりで、コロがまんまるの目でその横顔を見上げている。もちろん三上には見えていない。俺にだけ見える相棒は、名残惜しそうに、少しだけ元気がなかった。
◇◇◇
麓の駅前に着いて、車を停める。小さな無人駅で、朝の便を待つ人影もまばらだ。
荷台からバッグを下ろして、三上に渡す。ずしりと重いそれを受け取って、三上は一度、深く頭を下げた。
「世話になった」
それから、少し照れくさそうに、付け加えた。
「……また来ていいか?」
俺は迷わず答えた。
「いつでも。歓迎するよ」
それだけじゃ足りない気がして、もうひとつ足す。
「次は、露天風呂、もっとゆっくり入ってけ。今回、のぼせるの気にして早めに上がってただろ」
「バレてたか」
三上が声を出して笑った。改札の手前で、もう一度こっちを振り返る。
「じゃあな。……ほんと、助かった」
「気をつけてな」
改札を抜けて、ホームへの階段を上っていく。その背中が見えなくなるまで、俺は手を振り続けた。姿が完全に消えても、しばらく、ぼんやりそこに立っていた。
◇◇◇
軽トラに戻ると、助手席で、コロがちょこんと座っていた。
「いっちゃった、ねぇ」
ぽつり、と寂しそうに言う。まんまるの目が、心なしかしょんぼりして見えた。
「そうだな。……行っちゃったな」
俺は苦笑して、コロの頭を指先でそっと撫でた。数日前まで無人だった山に、この数日は確かに、もう一人ぶんの気配があった。それがなくなると……案外、こたえるものだ。
エンジンをかけて、来た道を引き返す。山へ向かう道は、登りになる。
ハンドルを握りながら、俺は胸のあたりに残る、じんわりした温かさを噛みしめていた。役に立てたな、と思う。
「……人を泊めて、飯食わせて、風呂入れただけなんだけど」
それだけのことで、あんなに元気になるもんなんだな。来た時の、こっちが心配になるような顔を思い出すと、我ながら、ちょっと信じられない。
まあ、たいしたことはしていない。ただ、あの頃の自分が欲しかったものを、そのまま並べただけだ。それで足りたのなら、上等じゃないか。
一年前、俺がこの山に逃げてきたときには、こんなふうに迎えてくれる相手はいなかった。全部、自分ひとりで手探りだった。だから、あの頃こういう場所が一つでもあったら、と思っていた気持ちを、今度は自分が誰かに差し出せたのだとしたら。それは、悪くない巡り合わせだ。
「役に立てたなら、ヨシ、か」
いつもの締めの言葉を呟いて、俺はアクセルをそっと踏み込んだ。
窓の外を、木漏れ日が流れていく。コロは、いつのまにか助手席で丸くなって、うとうとしはじめていた。
ふと、空になった助手席が目に入る。さっきまで三上が座っていた場所だ。
「賑やかだったな、数日間」
独り言が、静かな車内にぽつんと落ちた。誰かと飯を食い、風呂の湯加減であれこれ言い合い、夜には星を見上げて他愛のない話をする。そういう時間を、俺はいつのまにか、けっこう気に入っていたらしい。
「……また、来てくれるといいな」
答える者はいない。蝉の声だけが、いっそう大きく満ちている。
静けさの戻った軽トラで、俺は山道を登り返した。曲がりくねった坂の先に、いつもの暮らしが待っている。それはそれで、悪くない。




