第177話
朝の縁側は、まだ日陰が涼しい。
三上は座卓の上に、たたんだ着替えとスマホの充電器を並べていた。来た時はぐしゃぐしゃにボストンバッグへ突っ込んでいた男が、今は一枚ずつ丁寧にたたんでいる。それだけのことが、なんだか可笑しかった。
俺は茶を二つ淹れて、片方を三上の前に置いた。
「帰り支度、ずいぶん几帳面じゃないか」
「そうか? ……なんか、来た時とは、気分が違うんだよな」
三上は湯呑みを両手で包んで、山のほうへ目をやった。頬に血の気が戻り、目の下の隈もすっかり薄れている。声にも張りがあって、青ざめて沈んでいた数日前がもう遠い。
思えばこの数日、俺はこいつに大したことをした覚えがない。かまど飯を炊いて、畑をいじらせて、風呂に沈めて、あとは放っておいただけだ。それでこうも顔つきが変わるのだから、人間ってやつの回復力も、案外馬鹿にできない。
朝の光が縁側の板を這って、たたまれたシャツの上でやわらかく止まっている。蝉の声がひとしきり湧いては、また引いていく。山は今日も、こいつを急かさない。
しばらく黙って茶を飲んでから、三上はぽつりと切り出した。
「あのさ。仕事のこと、まだ答えは出てないんだ」
「うん」
「辞めるか、続けるか。いっそ働き方を変えるか。……正直、山を下りたら、また分からなくなるかもしれない」
俺は口を挟まず、うなずいた。急かして出る答えなら、それはたぶん本物じゃない。俺自身がそうだった。
あの頃の俺は、朝から晩まで「早く決めろ」と詰められ続けて、決めるための余白なんてどこにもなかった。追い詰められて出す結論は、たいてい、いちばん楽なほうへ転がるだけだ。要件をろくに固めないまま走り出した案件が、あとで盛大に炎上するのと同じで。
余白がないと、人は正しく選べない。それだけは、身に染みて知っている。
「でもさ」
三上は湯呑みを置いて、まっすぐ前を見た。
「もう、追い詰められて選ぶんじゃなくて。ちゃんと自分で選べる気がするんだ。ここに来る前は、選ぶも何も、ただ流されて溺れてただけだったから」
その目に、来た時にはなかった落ち着きがある。土の匂いと、かまど飯と、露天風呂と、静かな夜。この山が数日かけて、こいつの芯にあった強張りを、ゆっくりほどいたんだろう。
溺れている人間に、泳ぎ方を説教しても仕方がない。まずは足の着くところに引き上げて、息を整えさせる。答えを探すのは、それからでいい。三上はやっと、足の着くところまで戻ってきたのだと思う。
俺は茶を一口飲んで、なるべく軽い調子で言った。
「まあ、無理はするなよ」
「うん」
「逃げ場は、ここにあるからな。しんどくなったら、いつでも逃げてこい。飯くらい、いくらでも食わせる」
言ってから、自分の言葉に少し照れた。
逃げ場、なんて、ずいぶん大きく出たものだ。でも本当に、俺はそう思っていた。かつて自分が喉から手が出るほど欲しかったものを、今は差し出せる側に立っている。それが、なんだか妙にくすぐったい。
◇◇◇
「逃げ場、か」
三上が茶を淹れ直しに立ったあいだ、俺は独りごちた。
「俺も、ここに逃げてきたクチだもんな。逃げた先が、こんなにいい場所になるとは、思わなかったけど」
全財産をはたいて山を買った時は、ただ街から逃げ出したい一心だった。逃げる、というのは負けみたいで、正直、後ろめたさもあった。それが今や、人に飯を食わせて、風呂に入れて、逃げてこいなんて言っている。人生、どこでどう転がるか分からない。
逃げた先が、こんなにいい場所になるなんて。逃げるのも、悪いことばかりじゃなかったらしい。少なくとも、あのまま街で沈んでいたら、こうして誰かに手を差し出す日は、来なかっただろう。
ふと足元を見ると、苔玉みたいなコロが、三上のボストンバッグのそばにちょこんと座っていた。まんまるの目で、たたまれた着替えをじっと眺めている。
「またきて、ほしいねぇ」
三上には見えないし、聞こえない。それでもコロの声には、ちゃんと寂しさが滲んでいた。
「そうだな。また来てくれると、いいな」
俺が小声で返すと、コロは満足げに、ころんと転がった。
◇◇◇
荷造りを終えた三上が、縁側に戻ってきた。バッグを框に置いて、こちらへ向き直る。
そして、深々と頭を下げた。
「お前がいてくれて、この山があって、助かった。……本当に」
いつものおどけた調子じゃない。腹の底から絞り出したような、まっすぐな声だった。
俺は思わず後ろ首をかいて、笑ってしまった。
「大げさだよ」
飯を炊いて、風呂を沸かして、畑を一緒にいじっただけだ。大したことは、何もしていない。礼を言われるほどのことをした覚えは、本当にないのだ。
「そうかな。……いや、そうなんだよ」
三上は洟をすすって、ようやくいつもの、少しおどけた顔に戻った。頭を下げたぶんだけ、肩の荷が下りたみたいに見えた。
それでも三上の顔には、来た時にはなかった光が戻っていて。俺はもう一杯、茶を淹れることにした。出発まで、あと少し。急ぐものなんて、この山には何もないのだから。




