第176話
朝、井戸端で顔を洗っていると、三上が縁側から声をかけてきた。
「結城、今日、何か手伝うことあるか」
その声に、来た時とは別の張りがあった。喉の奥にひっかかっていた綿みたいなものが、いつのまにか抜けている。
俺は手ぬぐいで顔を拭きながら、振り返った。
朝日を背にして立つ三上の顔は、頬に血の気が差し、目の下の隈もほとんど消えていた。何より、目に力が戻っている。
「よく寝られたみたいだな」
「ああ。ぐっすりだ。……夢も見ないで、朝まで一気に」
三上は自分の頬を、確かめるように両手で挟んだ。
「山で、完全に充電できたよ。ありがとな。……正直、来た時は、もう駄目かと思ってた」
来た時の、生気の失せた顔を思い出す。改札からふらりと現れた、青白くてうつろな、あの顔。声にも張りがなくて、笑い方すら、どこかぎこちなかった。
それが、この数日で、日に日にほどけていった。よく食い、よく寝て、よく笑うようになって、今朝の顔には、もう疲れの影がどこにもない。
俺は、なんだか自分のことみたいに嬉しくなって、つい笑った。
「元気になったなら、何よりだ」
それだけ言えば、じゅうぶんな気がした。
◇◇◇
せっかく元気になったんだから、今夜は少し豪勢にいこう。俺はそう決めて、朝のうちから支度にかかった。
回復祝いだ。相手が元気になった祝いに飯を作る、というのは、我ながら悪くない口実だと思う。
まずは川だ。三上を連れて沢まで下り、仕掛けておいた籠を上げると、銀色の川魚が数匹、跳ねていた。
「おお、獲れてる獲れてる」
「マジか。こんなの、スーパーでしか見たことないぞ」
三上が子どもみたいに覗き込む。その顔つきが、来た時とはまるで違って見えた。
沢の水は真夏でも指が痺れるほど冷たくて、川魚はその冷たさの中で身を締めている。持ち帰るあいだも、三上は籠の中を何度も覗いては、うれしそうにしていた。
昼過ぎ、俺はかまどに火を入れた。
「エン、今日は張り切っていくぞ」
「おう、任せろって!」
尻尾の火をゆらして、赤いサラマンダーが薪の陰から返事をする。もちろん三上には見えないし、聞こえない。俺が誰もいない土間に話しかけているように見えているはずだが、三上はもう慣れたもので、気にもしない。
川魚に串を打ち、粗塩をきつめに振って、遠火でじっくり焼く。頭を上げ、尾を反らせるように串を通すと、焼き上がりが川を泳いでいるみたいに見える。皮がぷつぷつと弾け、脂の焦げる香ばしい匂いが、土間いっぱいに満ちていく。
エンのおかげか、火加減はいつもの通り、文句のつけようがなかった。強すぎず、弱すぎず、身のいちばんうまいところで、ちょうど火が通る。
炊き込みご飯には、畑の夏野菜を刻んで入れた。茄子、いんげん、油揚げ、それにとうもろこしの粒をこそげて。醤油と出汁を含んだ米が、羽釜の中でつやつやと炊き上がっていく。
そうめんは、最後に締める水がいのちだ。裏山の湧き水で、きゅっと冷たく締める。
「あるじ、そのお水、わたくしにお任せくださいまし」
水場の縁で、半透明のスイがぷかぷか揺れていた。ざるに上げたそうめんを湧き水にくぐらせると、水はいっそう澄んで、麺が絹みたいに透きとおる。
これも、まあ、湧き水がいいんだろう。俺はそう思って、深くは考えなかった。
◇◇◇
日が傾いて、縁側に膳を並べた。
湯気を立てる炊き込みご飯、こんがり焼けた川魚の塩焼き、氷を浮かべた冷たいそうめん。夕風が通って、蝉の声が少し遠くなる。
「……なんだこれ、旅館じゃん」
三上が呆れたように笑った。
「大げさだよ。ありあわせだ」
箸を割って、まずは川魚から。三上は皮ごとかぶりつき、ふっくらした身をほぐしては、白い炊き込みご飯をかき込む。そうめんをずるずるとすすって、ふう、と息をつく。
「うまい。ほんと、うまい」
その食べっぷりが、来た時とはまるで違った。あの頃は、出したものを申し訳なさそうに、少しずつ口に運ぶだけだった。
今は、うまいものをうまいと言って、腹の底から食っている。焼き魚の身をきれいにほぐし、炊き込みご飯を二膳目までおかわりして、そうめんは氷ごと汁を飲み干した。
その食べっぷりを眺めているだけで、俺はもう満足だった。作った甲斐がある、というのは、たぶんこういうことを言うんだろう。
二人で膳を空にして、最後の一杯のそうめんまで平らげる頃には、あたりはすっかり夕闇に沈んでいた。
「充電、ねえ」
膳を片づけながら、俺はひとりごちた。
「俺は飯作って、風呂沸かしてただけなんだけどな。……まあ、役に立ったなら、いいか」
縁側では、腹を満たしたエンが、まだ温かいかまどの余熱に寄りかかって、うとうとしている。
三上は満腹の腹を、ゆっくりとさすっていた。
そして、暮れていく山の稜線を眺めながら、ぽつりと言った。
「……もう少し、都会で頑張ってみるよ」
その声には、来た時にはなかった芯があった。
「ダメなら、また来る。ここがあると思えば、なんとかやれる気がする」
俺は片づけの手を止めて、うん、とだけ頷いた。
いつでも来い、と言うのは、なんだか野暮な気がして、言わなかった。




