第175話
朝のうちに、三上が「畑、見てくる」と、自分から鍬を担いで出ていった。
来た当初は、昼まで死んだように寝ていた男が、だ。今では俺に叩き起こされなくても、勝手に起きて、勝手に段々畑へ下りていく。
その背中を縁側から見送って、俺は湯殿の掃除にとりかかった。昨夜のうちに抜いておいた湯船の底には、薄く湯の花が沈んでいる。
たわしを握って、ごしごしとこすり落とす。露天風呂なんてものは、こまめに手をかけてやらないと、すぐにぬめってくるのだ。
もっとも、この湯船はなぜだか、他所の風呂ほど汚れない。石の目に垢が溜まることもなく、いつも磨いたばかりみたいに、つるりとしている。
水がいいんだろうな、といつも思う。山の湧き水は、汲んだそばから指紋が透けるほど澄んでいるのだ。
朝の湯殿には、まだ夜の冷たさが残っている。石を撫でる風がひんやりとして、たわしを握る指先が、心地よく引き締まった。
膝をついてたわしを動かしていると、ぷかり、と視界の隅に、半透明のかたまりが浮かんだ。
湯の縁で、スライムのスイが、のんびりと揺れている。掃除の邪魔にならない端っこで、ぷかぷかと機嫌がよさそうだ。
気づけば、俺の肩には苔玉のコロが乗っていた。濡れた縁石のあたりを、まんまるの目で、じっと眺めている。
「あるじのおうち、つかれたひとを、げんきに、するねぇ」
しみじみと、コロが言った。俺は手を止めて、へえ、と笑う。まんまるの目は、はるか畑のほうを追っているらしかった。
作業台がわりの平石の上では、いつのまにかモクが腕を組んでいる。三上の下りていった斜面を、渋い顔で見下ろしていた。
「フン……あの男、来た時とは別人だな」
鼻を鳴らすように、モクが言う。まあ、それは俺も思う。改札から出てきたときの、あの抜け殻みたいな顔を思えば、今の三上は、ずいぶん人間らしくなった。
よく食って、よく寝て、よく笑うようになった。一緒に組んだ不格好な棚を、達成感がどうのと得意げに撫でていたのが、つい昨日のことだ。
……別人、か。たったそれだけのことで、人ってのは、こんなに変わるものらしい。
スイが、湯の縁でひときわ得意げに、くるりと身をよじった。
「聖なるお湯、人にも効くんですのよ? あるじ、知ってましたの?」
聖なるお湯、ときたか。
俺は苦笑して、たわしを桶のへりに置いた。どこからどう見ても、ただの山の湯だと思うんだが。
焚き口のほうでは、消し炭にもぐって暖をとっていたエンが、負けじと尻尾の火をゆらりと揺らす。赤いサラマンダーが、ちろりと舌を出した。
「オレの火で炊いた飯も、効いてるんだぜ、きっと!」
やいのやいのと、精霊たちが口々に、自分の手柄を並べ立てる。掃除をしているそばで、ちょっとした自慢大会だ。
湯が効いた、飯が効いた、と言われても、俺には返しようがない。うちの風呂も飯も、田舎ならどこにでもある、ごく普通のやつなんだが。
「はいはい。……そうだといいなあ」
俺は適当に相槌を打って、また、たわしを動かしはじめた。あんまり真に受けても、しょうがない。
◇◇◇
聖なる湯、ねえ。
湯船をこすりながら、俺はひとりごちる。どう眺めても、山の湧き水を薪で沸かしただけの湯だ。聖なるも何も……そんな大層なものじゃない。
「……いや、まあ、あいつが元気になったのは、確かだ」
来た時と今とじゃ、顔つきがまるで違う。飯を食わせて、風呂に入れて、畑を手伝わせた。それくらいのことで、三上はちゃんと元気になった。
……いや。それを言うなら、一年前の俺だって、そうだったのだ。この山に転がり込んで、飯を炊いて、湯に浸かって、気づけばあの擦り切れた顔が、どこかへ抜けていった。
だったら、この湯が聖なるかどうかなんて、正直、どうでもいい話だ。効いたなら、それでいい。
「……ならヨシ、か」
俺は肩をすくめて、たわしを桶へ放った。深く考えても、たわしの動きが速くなるわけでもない。
磨きあげた湯船に、山の水を張り直す。竹の樋を伝って、からからと澄んだ水が溜まっていく。
明日の湯も、これでいい仕上がりになるだろう。三上のやつ、帰る前にもう一回くらい、ゆっくり浸かっていけばいい。
◇◇◇
水面をのぞきこんでいたスイが、ふと、思い出したように顔を上げた。
「疲れた人が、これからもっと来ますわよ……きっと」
念を押すみたいに、スイがぷかりと揺れる。俺は樋を止めながら、はて、と首をかしげた。こんな山奥まで、そうそう人が来るとも思えないが。
「……そうかな」
まあ、三上みたいに、擦り切れたやつがふらりと訪ねてくることは、これからもあるかもしれない。あの電話みたいに、ぽつりと。
「まあ、来たら、もてなすだけだよ」
湯を沸かして、飯を炊いて、布団を干す。俺にできるのは、せいぜい……そのくらいのものだ。たいしたことじゃない。
張られたばかりの水面に、夏の空が、青く映りこんでいた。
畑のほうから、三上の呑気な鼻歌が、風にのって流れてくる。ずいぶんと、上機嫌なようだった。




