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山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


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174/220

第174話

 朝の畑仕事を終えて縁側に戻ると、三上が湯呑みを片手に、山の景色を眺めていた。


 滞在も数日が過ぎて、来た時の、蝋みたいに強張った顔つきは、もうどこにもない。頬に血の気が差し、目にも力が戻っている。数日でここまで変わるものかと、隣に座るたびに驚かされる。


 俺が縁側に腰を下ろすと、三上は緑の重なる谷を見渡して、しみじみと息を吐いた。


「なあ、結城。ほんと、いい場所だよな、ここ」


 まあな、と俺は麦茶を注ぐ。自分でも、そう思う。


 夏の朝の谷は、いくつもの緑が層になって重なっている。手前は畑の濃い葉の色、その奥は雑木の淡い緑、いちばん遠くの尾根は、霞んで青い。眺めているだけで、目の奥がすっと涼しくなる景色だ。


「こんないい場所、SNSに上げたらバズって、人が殺到しそうだな」


 三上がふと、スマホを取り出した。会社員の癖なのか、写真の一枚でも撮っておこうという手つきだ。谷にカメラを向け、画面の中に夏山を収めようとする。


 だが、そこで手が止まった。


 なんというか、指がシャッターに届かない。三上はしばらく画面をのぞいたまま、ふっと視線を谷のほうへ戻し、それからまた画面に落とし、を何度か繰り返した。


 撮ろう、という気持ちが、途中でほどけてしまうらしい。まあいいか、と力が抜けて、また景色そのものに見入ってしまう。


 やがて、なんとなく気が逸れたように、スマホをそのままポケットに戻してしまった。


「……あれ」


 本人も、自分の動きに首をかしげている。


「不思議だな。撮ろうと思うのに、まあいいか、ってなる」


 俺はその様子を、麦茶をすすりながら眺めていた。そういえば、俺自身、この山の写真をろくに撮ったことがない。撮る必要を、なぜか感じたことがなかった。


◇◇◇


 実を言うと、三上には見えていないものが、俺には見えている。


 縁側の陽だまりでは、精霊たちが、すっかり気を抜いて寛いでいた。コロは苔玉の体を丸めて、俺の足元でうたた寝している。スイは三上の湯呑みの縁で、ぷかぷかと機嫌よさそうに揺れていた。


 エンは日向で腹を上に向けて伸びをし、モクは軒先の柱にもたれて腕を組んでいる。誰ひとり、そわそわしていない。


 こいつらがこんなに緩みきっているのは、この敷地が、よほど安心できる場所だからなんだろう。外の何かに怯える必要もなく、身を縮めることもなく、静かに寝そべっていられる。そういう空気が、この山にはあるらしい。


 思えば、精霊たちはいつも、この敷地の内側で伸び伸びとしている。庭を一歩出た山道のほうへは、あまり近寄ろうとしない。まるで、目に見えない囲いの内側だけが、自分たちの安心できる縄張りだとでもいうように。


「お前ら、ずいぶんくつろいでるなあ」


 小声で言うと、コロが薄目を開けて、うにゃ、と鳴くような仕草をして、また眠りに落ちた。


 三上にはこの声も届かない。俺のひとり言に、彼はきょとんと山を見ているだけだ。何もない縁側の一角に向かって俺が話しかけるのを、もう慣れたもので、独り言の多いやつだと思っているらしい。


◇◇◇


 それにしても、と俺は思う。


 考えてみれば、こんなに景色のいい山なのに、人が押し寄せてきたためしがない。麓の集落の人はたまに顔を出すが、それきりだ。観光客がどっと来るでもなく、変な業者が嗅ぎつけるでもない。


 山を買った当初は、格安の掘り出し物だったから、後から誰かに文句をつけられるんじゃないかと、少しだけ身構えていた。だが、そんな気配は一度もなかった。土地を巡るごたごたも、しつこい勧誘も、この山にはまるで寄ってこない。


「不思議と、この山のことは、昔から騒ぎにならないんだよな。辺鄙すぎるからかな」


 まあ、車で山道を十五分も登る辺境だ。わざわざ来る物好きもいまい。立地のおかげで、静かなままでいられている。そういうことだろう。


 俺は麦茶を飲み干して、湯呑みを置いた。得な立地を引いたものだと、我ながら思う。ボロ家つきの安い山だと思って買ったのに、思わぬところで静けさというおまけがついてきた。


 三上は、しばらく黙って谷を見ていた。


 蝉の声が、遠くで満ちては引いていく。風が梢を撫でて、青い匂いが縁側まで流れてきた。都会の喧騒からいちばん遠い、この静けさを、彼はゆっくりと味わっているようだった。


 通知音も、着信も、詰めてくる上司の声もない。ただ、蝉と風と、湯呑みの底に残った麦茶の氷が、からりと鳴る音だけ。三上の横顔から、来た頃の張り詰めた強張りが、すっかり消えていた。


 やがて、湯呑みを縁側にことりと置いて、三上がしみじみと口を開いた。


「でも、それでいいのかもな」


 うん? と俺は横を見る。


「ここは、静かなままがいい。……俺だけの、隠れ家にしたいくらいだ」


 半分は冗談、半分は本気、という顔だった。


 スイが湯呑みの縁で、なぜか得意げにぷるんと揺れた。まるで、そうでしょうとも、とでも言いたげに。


 俺は苦笑して、もう一杯どうだ、と麦茶の瓶を持ち上げた。隠れ家、か。まあ、そう言ってもらえるなら、ボロ山を買った甲斐もあるってものだ。


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