第173話
朝、目を覚ますと、枕元のスマホは真っ暗なままだった。充電が切れたのか、俺が見なくなっただけなのか、もう……よく分からない。
三上が来て、何日目だろう。数えようとして、途中でやめた。この山に来てから、曜日も日付も、あまり意識しなくなって久しい。今日が何曜日かと聞かれても、たぶん俺は答えられない。
顔を洗いに縁側へ出ると、三上が先に起きて、ぼんやりと山を眺めていた。その手首を見て、俺は少し笑う。あんなに肌身離さず着けていた腕時計が、いつのまにか外されて、座卓の隅にぽつんと伏せてあった。
「時計、外したのか」
「ん……ああ」
三上は自分の手首をさすって、少し照れたように言った。
「……なんか、いらなくなった。着けてても、ここじゃ見ないんだよな。見ても、何時でも別に困らないし」
わかるよ、と俺は思う。都会にいた頃は、俺も一分一秒に追われていた。終電、締め切り、次の打ち合わせ。時計を見るたびに、胃のあたりがきゅっと縮んで、いつも何かに遅れているような気がしていた。
あの頃、時間は敵だった。減っていく残り時間を睨みながら、いつも追い立てられていた。ところがこの山では、時間はただ静かに、川みたいに流れていくだけだ。追いかけてこないし、奪い合うものでもない。
三上の手首から時計が消えたのは、たぶん、その流れに体がようやく馴染んだしるしなんだろう。
◇◇◇
朝飯は、腹が減ってから炊いた。
決まった時間に食うんじゃなく、体が食いたがってから、かまどに火を入れる。当たり前のことのはずなのに、都会では一度もできなかった。昼は昼だから食い、夜は夜だから流し込む。自分の腹の声なんて、ゆっくり……聞いている暇もなかった。
しゃがんで薪を組み、火を入れると、炎がすっと素直に育っていく。相変わらず、この火は妙に聞き分けがいい。ぱちぱちと薪が爆ぜて、羽釜からじきに甘い湯気が立ちのぼってきた。
「あるじ、あのひと、いいお顔になってきましたわね」
風呂の縁のあたりから、得意げな声がした。スイが、ぷかぷかと機嫌よさそうに揺れている。半透明のぷるぷるした体が、朝の光をきらきらと弾いていた。
もちろん、三上には見えていないし、聞こえてもいない。俺は誰にともなく小さく頷いて、飯の支度に戻る。
炊きあがった飯を、三上は今日もうまそうにかき込んだ。来た頃の、生気の抜けた土気色の顔は、もうどこにもない。頬にちゃんと赤みが戻って、目にも力が宿っている。
来た初日は、飯の最中でも何度もスマホに手を伸ばしていた。着信もないのに画面をつけて、また伏せて。その手の癖が、いつのまにか、すっかり抜けている。今はただ、茶碗と箸だけを見て、黙々と噛んでいる。
「……うまいなあ、これ」
三上が、しみじみと呟いた。腹が満ちるまで食って、満ちたら箸を置く。それだけのことが、都会ではできなかったのだと、俺にはよく分かる。
◇◇◇
昼下がり、二人で縁側に並んで腰を下ろした。
やることは、特にない。茶を飲んで、山を眺めて、思い出したように、どうでもいい話をする。都会にいた頃、俺はこの「何もしない時間」が、たまらなく怖かった。何かしていないと、世界に置いていかれるような気がして、休みの日ですら気が休まらなかった。
三上が、ふと空を見上げて言った。
「なあ。俺、さっき飯食ったの、何時だったか、全然覚えてないんだ」
「そりゃそうだろ。時計、外したんだから」
「いや、そういう話じゃなくてさ」
三上は、可笑しそうに笑った。
「分刻みで動いてたのが、馬鹿みたいだ。五分単位でスケジュール埋めて、空きがあると不安になって、埋めるための予定をまた入れて。……あれ、なんだったんだろうな」
太陽が傾けば夕方で、腹が鳴れば飯どきで、瞼が重くなれば、寝る頃合いだ。この山の時間は、もとからそういうふうにできている。急かすものが……何もない。
俺は湯呑みを傾けながら、ぽつりと言った。
「時計を見ない暮らしなんて、都会じゃ考えられなかったもんな。俺も、来た当初は、そわそわしてたっけ」
言ってから、我ながら少しおかしくなった。今の俺ときたら、スマホの時刻すら、もう何日見ていないだろう。
◇◇◇
日が、ゆっくりと傾いてきた。
縁側の陽だまりが、板の目に沿って、じわじわと動いていく。三上は、その暖かい一角に背中を預けて、猫みたいに目を細めていた。まどろむ寸前の、ゆるみきった横顔だった。
風が、梢をさらさらと撫でていく。どこか遠くで、鳥が一羽、間延びした声で鳴いた。
やがて三上が、大きく伸びをした。背骨がぽきりと鳴って、それから……長い長い息を吐き出す。
「時間って……こんなに、ゆっくりでよかったんだな」
半分眠ったような、とろけた声だった。
「何を……あんなに、焦ってたんだろう、俺」
俺は何も言わず、ただ隣で、ぬるくなった茶をすすった。答えなんて、たぶん、いらない。こういう時間は、言葉で埋めないほうがいい。
縁側の陽だまりの端で、スイが一つ、満足そうに、ぷかりと揺れた。




