第172話
三上が山に来て、何日が過ぎただろう。
正確な日数はもう俺も覚えていないが、日が経つごとに、あいつの顔が目に見えて変わっていった。来た当初、駅の改札から出てきた三上の頬は、蝋みたいに青白かった。目の下には濃い隈が刻まれていて、笑っても口の端だけがぎこちなく持ち上がる、そういう疲れた笑い方をしていた。
それが、今はどうだ。
朝、縁側から差す光の中で味噌汁を啜っているあいつの頬には、うっすらと血の気が差している。隈もいつのまにか薄れて、目に力が戻ってきた。よく食べて、よく眠って、よく笑う。ここへ来た日には、とても考えられなかったことだ。
最初の二日ほど、三上はほとんど眠って過ごしていた。昼過ぎまで布団から出てこず、飯だけ食ってはまた横になる。よほど眠りが足りていなかったのだろう。それが三日目あたりから、少しずつ起きている時間が延びて、縁側で茶を飲んだり、俺の畑仕事をぼんやり眺めたりするようになった。
いちばん驚いたのは、今朝のことだった。
俺が起きて土間へ下りると、三上がもう先に起きていて、寝間着のまま畑の畝をのぞき込んでいたのだ。朝露に濡れた足元も気にせず、しゃがみ込んで、実の育ち具合を確かめている。
「トマト、また赤いのが増えてるぞ」
振り返ったあいつの顔が、朝日を受けて妙にすっきりして見えた。誰にも起こされず、自分から起きて、畑を見に行く。都会にいた頃のこいつなら、休みの日は昼まで泥のように眠っていた。それが今は、鳥の声で自然と目が覚めるらしい。
その姿を見ていたら、一年前の自分が、ふっと重なった。
俺もそうだった。この山に来た当初は、正直、抜け殻みたいなものだったと思う。何をするにも億劫で、飯を食うのも面倒で、ただ、街の喧騒から逃げてきただけだった。
それが飯を炊いて、風呂を沸かして、土をいじっているうちに、少しずつ、人間らしさのようなものが戻ってきた。錆びついた蝶番に油を差すみたいに、ぎこちなく、けれど確かに、動きが滑らかになっていく。あの感覚を、たぶん今、三上もなぞっている。
◇◇◇
肩の上で、コロがぽよんと苔玉を弾ませた。
「あるじ、あのひと、げんきに、なってきたねぇ」
まんまるの目を細めて、心底うれしそうな声だ。三上には、この声は届かない。姿も見えていない。それでもコロは、あいつの回復を、まるで我がことのように喜んでいる。
「ああ。見違えたよなあ」
俺が小声で返すと、コロはまた一つ、うれしそうに跳ねた。畑の土がほんのり色づいて、湿り気を帯びていく。こいつが機嫌よく肥やしているのが、俺にはよく分かる。
朝飯の支度をしようと羽釜を出したところで、三上が縁側から声を上げた。
「なあ、結城」
「ん?」
「今日、俺が飯炊いてみていいか」
俺は思わず手を止めて、あいつの顔を見た。
来た日には、箸を持つ手すら重たそうだった男が、自分から飯を炊きたいと言い出している。……これはもう、立派な回復のサインだ。俺は笑って、羽釜をあいつのほうへ押しやった。
「いいぞ。かまど、教えてやる」
◇◇◇
三上のかまど仕事は、見ていて危なっかしかった。
薪の組み方はぎこちないし、火吹き竹の使い方も分からず、煙にむせては咳き込んでいる。それでも本人は妙に楽しそうで、顔を真っ黒にしながら炎と格闘していた。
かまどの奥で、エンが尻尾の火をちろちろ揺らして、火の回りをこっそり手伝っているのが見えた。……まあ、それは言わないでおく。当の三上は「意外と火がつくもんだな」なんて、的外れなことに感心していたけれど。
炊き上がった飯は、正直に言えば、少し芯が残っていた。
茶碗によそって、二人で縁側に並んで食う。俺はひと口食べて、こらえきれずに噴き出した。
「芯、あるな」
「うるさいな。初めてなんだから」
そう言いながら、三上も自分で笑っている。二人でげらげら笑いながら、芯の残った飯をかき込んだ。不思議と、まずくはなかった。むしろ、こういう飯のほうが、あとあと記憶に残る気がする。
初めて自分で炊いた飯というのは、そういうものだ。俺も一年前、初めてこのかまどで炊いた白飯の味を、今でもよく覚えている。芯どころか、あの時は半分焦がしたっけ。それでも、うまかった。自分の手で火を熾して、自分の手で炊いた飯は、それだけで格別なのだ。
茶碗を半分ほど空にして、俺はふと思った。
こいつ、山に置いといたら、勝手に元気になったな。
「まあ、飯と風呂と、あと寝てただけなんだけど」
俺が独りごちると、三上が箸を止めて、こっちをまじまじと見た。
「なあ、結城」
「ん?」
「顔つき、変わってきたな」
言われて、俺は思わず自分の頬を撫でた。……いや、俺の顔じゃない。三上のことを言っているんだろう。
「そうか?」
「ああ。来た時の、幽霊みたいな顔じゃなくなった」
三上はそう言って、芯の残った飯を、また一口かき込んだ。朝の光の中で、その頬にはちゃんと、血の色が乗っている。
俺は返事のかわりに、味噌汁のおかわりをよそってやった。湯気の向こうで、あいつがまた、ひとつ笑った。




