第171話
日が落ちると、山の夜はぐっと深くなる。
縁側に蚊取り線香をひとつ焚いて、俺は三上と並んで腰を下ろした。細い煙が、風のない空気の中をまっすぐ立ちのぼって、途中でふっとほどけていく。渦巻きの緑が、ほのかに橙色の火種を宿している。
膝の前には、麓の酒屋で仕入れた地酒を、井戸水でよく冷やしたやつ。欠けた猪口にとぷとぷ注ぐと、澄んだ音がやけに大きく響いた。
ひと口含むと、米の甘みが舌に広がって、鼻から抜けていく。強い酒じゃない。ゆっくり飲むほどうまくなる、そういう素直な味だ。蚊取り線香の匂いと、湿った土の匂いと、酒。夏の夜を、ぜんぶ盛りつけたみたいな一杯だった。
「悪いな、こんなとこまで来てもらって」
「いや。……こっちが、押しかけたんだろ」
三上は苦笑して、猪口をちびりと舐めた。街にいた頃は、こいつがこんなにゆっくり酒を飲むところなんて、見たことがなかった。いつも、次の予定に追われるように呷っていた気がする。
しばらく、二人とも黙っていた。虫の声だけが、あたりに満ちている。
沈黙が気まずくないというのは、それだけで贅沢なことだ。昔の俺は、間ができるとすぐ何か喋らなきゃと焦ったものだった。
「……最近さ」
ぽつり、と三上が口を開いた。
「毎晩、日付が変わるまで会社にいてさ。帰っても、飯食う気力もなくて、そのまま寝て。朝起きると、もう体が重いんだ。何のために働いてるのか、途中で分かんなくなってな」
俺は口を挟まなかった。ただ、猪口を傾けて、うなずく。
その一つひとつに、覚えがある。急かさず、否定もせず、こぼれるに任せておく。堰き止めると、かえって出てこなくなるものだ。
「電車の窓に映る自分の顔が、日に日にひどくなっていくのがさ、自分でも分かるんだよ。目が死んでる。……まわりもみんな同じ顔してて、それが当たり前になってて」
三上は猪口を両手で包んで、ゆっくり回した。
「そんなとき、お前が電話くれただろ。山だけど静かだぞ、飯はうまいぞって。……正直、なんで急にって思ったよ。でも、気づいたら、切符買ってた。逃げるみたいでさ、情けなかったけどな」
「逃げるのは、悪いことじゃないよ」
俺は空を見ずに言った。
「俺だって、逃げてきたクチだ。この山に。逃げた先が、案外わるくなかっただけの話でさ」
三上はふっと笑って、それきりまた黙り込んだ。虫の声が、また二人の間を埋めていく。
「辞めるべきか、続けるべきか。ずっと、分からなくてさ」
三上は、夜空の一点をぼんやり見つめていた。
俺は少し考えて、それから言った。
「答えは、急がなくていいよ」
「そうか。そういうもんかな」
「ああ。ここで頭を空っぽにしてから、考えろ。腹が減ったら食って、眠くなったら寝て。それからでいい」
◇◇◇
そのとき、視界の隅で、赤いものがちろりと動いた。
エンだ。猪口の縁に、ちょこんと前足をかけて、澄んだ酒をきらきらした目でのぞき込んでいる。尻尾の先の火が、期待にゆらゆら揺れていた。
「あるじ、これ、飲んでいいのか!?」
だめに決まってるだろ。
「……だめだ」
俺は苦笑して、指先でそっとエンを押し戻した。火の精霊が酒なんか飲んだら、どうなるか知れたもんじゃない。三上には、この小さな騒動はまるで見えていない。不思議そうに首をかしげた俺を、ちょっと変な顔で見ただけだった。
「どうした?」
「いや。……虫が、猪口に落ちそうでな」
我ながら、苦しい言い訳だ。エンは頬をふくらませて、火種のそばへすごすご戻っていった。
◇◇◇
二杯目を注いでやると、三上はしみじみと俺を眺めた。
「お前、変わったな」
「そうか?」
「……いい意味で。昔は、もっとカリカリしてただろ。誰かがミスすると、すぐピリピリしてさ。今のお前、なんつーか……丸くなった」
言われて、少し考える。自分ではよく分からないものだ。
「そうかな。まあ、山のおかげだよ」
畑を耕して、飯を炊いて、風呂を沸かして。そういう当たり前のことを続けていたら、いつのまにか肩の力が抜けていた。だからきっと、この山が、俺を勝手にほどいてくれたんだろう。
自分の何かが変わったのだとしても、それは俺の手柄じゃない。土と、火と、湧き水の、おかげだ。
三上は、俺の言葉に何か言いかけて、やめた。そのかわり、深く息を吐いて、猪口を置く。
風がひとすじ、庭の草を撫でていった。蚊取り線香の煙が、ふっと横に流れる。
「……静かだな」
「退屈か?」
「まさか」
三上は首を振って、それから、ゆっくりと空を仰いだ。
つられて俺も見上げる。山の夜空は、街の明かりに邪魔されない。びっしりと、こぼれ落ちそうなほどの星が、頭の上いっぱいに広がっていた。天の川が、うっすらと橋を架けている。
三上は、しばらく言葉をなくしていた。
「こんな星、都会じゃ見えないもんな」
ぽつりと、こぼす。
「……俺、下ばっかり見て、生きてたのかもな」
その声は、責めるふうでも、嘆くふうでもなかった。ただ、いま初めて顔を上げた者の、静かな声だった。
俺は何も言わず、冷えた酒をもう一杯、こいつの猪口に注いでやった。




