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山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


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171/208

第171話

 日が落ちると、山の夜はぐっと深くなる。


 縁側に蚊取り線香をひとつ焚いて、俺は三上と並んで腰を下ろした。細い煙が、風のない空気の中をまっすぐ立ちのぼって、途中でふっとほどけていく。渦巻きの緑が、ほのかに橙色の火種を宿している。


 膝の前には、麓の酒屋で仕入れた地酒を、井戸水でよく冷やしたやつ。欠けた猪口にとぷとぷ注ぐと、澄んだ音がやけに大きく響いた。


 ひと口含むと、米の甘みが舌に広がって、鼻から抜けていく。強い酒じゃない。ゆっくり飲むほどうまくなる、そういう素直な味だ。蚊取り線香の匂いと、湿った土の匂いと、酒。夏の夜を、ぜんぶ盛りつけたみたいな一杯だった。


「悪いな、こんなとこまで来てもらって」


「いや。……こっちが、押しかけたんだろ」


 三上は苦笑して、猪口をちびりと舐めた。街にいた頃は、こいつがこんなにゆっくり酒を飲むところなんて、見たことがなかった。いつも、次の予定に追われるように呷っていた気がする。


 しばらく、二人とも黙っていた。虫の声だけが、あたりに満ちている。


 沈黙が気まずくないというのは、それだけで贅沢なことだ。昔の俺は、間ができるとすぐ何か喋らなきゃと焦ったものだった。


「……最近さ」


 ぽつり、と三上が口を開いた。


「毎晩、日付が変わるまで会社にいてさ。帰っても、飯食う気力もなくて、そのまま寝て。朝起きると、もう体が重いんだ。何のために働いてるのか、途中で分かんなくなってな」


 俺は口を挟まなかった。ただ、猪口を傾けて、うなずく。


 その一つひとつに、覚えがある。急かさず、否定もせず、こぼれるに任せておく。堰き止めると、かえって出てこなくなるものだ。


「電車の窓に映る自分の顔が、日に日にひどくなっていくのがさ、自分でも分かるんだよ。目が死んでる。……まわりもみんな同じ顔してて、それが当たり前になってて」


 三上は猪口を両手で包んで、ゆっくり回した。


「そんなとき、お前が電話くれただろ。山だけど静かだぞ、飯はうまいぞって。……正直、なんで急にって思ったよ。でも、気づいたら、切符買ってた。逃げるみたいでさ、情けなかったけどな」


「逃げるのは、悪いことじゃないよ」


 俺は空を見ずに言った。


「俺だって、逃げてきたクチだ。この山に。逃げた先が、案外わるくなかっただけの話でさ」


 三上はふっと笑って、それきりまた黙り込んだ。虫の声が、また二人の間を埋めていく。


「辞めるべきか、続けるべきか。ずっと、分からなくてさ」


 三上は、夜空の一点をぼんやり見つめていた。


 俺は少し考えて、それから言った。


「答えは、急がなくていいよ」


「そうか。そういうもんかな」


「ああ。ここで頭を空っぽにしてから、考えろ。腹が減ったら食って、眠くなったら寝て。それからでいい」


◇◇◇


 そのとき、視界の隅で、赤いものがちろりと動いた。


 エンだ。猪口の縁に、ちょこんと前足をかけて、澄んだ酒をきらきらした目でのぞき込んでいる。尻尾の先の火が、期待にゆらゆら揺れていた。


「あるじ、これ、飲んでいいのか!?」


 だめに決まってるだろ。


「……だめだ」


 俺は苦笑して、指先でそっとエンを押し戻した。火の精霊が酒なんか飲んだら、どうなるか知れたもんじゃない。三上には、この小さな騒動はまるで見えていない。不思議そうに首をかしげた俺を、ちょっと変な顔で見ただけだった。


「どうした?」


「いや。……虫が、猪口に落ちそうでな」


 我ながら、苦しい言い訳だ。エンは頬をふくらませて、火種のそばへすごすご戻っていった。


◇◇◇


 二杯目を注いでやると、三上はしみじみと俺を眺めた。


「お前、変わったな」


「そうか?」


「……いい意味で。昔は、もっとカリカリしてただろ。誰かがミスすると、すぐピリピリしてさ。今のお前、なんつーか……丸くなった」


 言われて、少し考える。自分ではよく分からないものだ。


「そうかな。まあ、山のおかげだよ」


 畑を耕して、飯を炊いて、風呂を沸かして。そういう当たり前のことを続けていたら、いつのまにか肩の力が抜けていた。だからきっと、この山が、俺を勝手にほどいてくれたんだろう。


 自分の何かが変わったのだとしても、それは俺の手柄じゃない。土と、火と、湧き水の、おかげだ。


 三上は、俺の言葉に何か言いかけて、やめた。そのかわり、深く息を吐いて、猪口を置く。


 風がひとすじ、庭の草を撫でていった。蚊取り線香の煙が、ふっと横に流れる。


「……静かだな」


「退屈か?」


「まさか」


 三上は首を振って、それから、ゆっくりと空を仰いだ。


 つられて俺も見上げる。山の夜空は、街の明かりに邪魔されない。びっしりと、こぼれ落ちそうなほどの星が、頭の上いっぱいに広がっていた。天の川が、うっすらと橋を架けている。


 三上は、しばらく言葉をなくしていた。


「こんな星、都会じゃ見えないもんな」


 ぽつりと、こぼす。


「……俺、下ばっかり見て、生きてたのかもな」


 その声は、責めるふうでも、嘆くふうでもなかった。ただ、いま初めて顔を上げた者の、静かな声だった。


 俺は何も言わず、冷えた酒をもう一杯、こいつの猪口に注いでやった。


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