第170話
日が落ちて、山の輪郭が藍色に沈んでいく。かまどの火だけが、土間をぼんやりと橙に照らしていた。
今夜も、大したものは作っていない。羽釜で炊いた白飯に、畑で採れた夏野菜の天ぷら、それに冷やした麦茶。ただそれだけの、いつもの夕食だ。
茄子と南瓜、青じそ、あとは大ぶりのししとうを、薄い衣でさっと揚げる。かまどの前にしゃがんで油の温度を見ていると、火加減がやけに素直に決まった。菜箸の先を油に沈めると、細かい泡がすっと立ちのぼる。ちょうどいい頃合いだ。
「今日も、いい揚がりだな」
衣がぱりっと音を立て、油の縁で小さくはぜる。俺は菜箸で一つずつ引き上げて、網の上に並べていった。油を切る間の、じゅうじゅうという控えめな音が、なんとも耳に心地いい。
揚げたての茄子は、箸で持っただけでとろりと重い。塩をひとつまみ振って、湯気ごと皿に盛る。それを座卓へ運んで、三上の前にことりと置いた。
「ほら、揚げたてが一番うまい。冷める前に食え」
「……悪いな。毎回、こんなにしてもらって」
三上は恐縮したように箸を取り、茄子の天ぷらを一つ口に運んだ。噛んだ瞬間、目がわずかに見開かれる。
この数日で、俺はもう何度もこの顔を見た。都会の胃が、ちゃんとした飯に驚く顔だ。
「うま……なんだこれ。茄子って、こんなに甘かったっけ」
「採れたてだからな。朝、そこの畑にぶら下がってたやつだ」
俺も向かいに腰を下ろし、飯をよそう。羽釜の蓋を取ると、炊きたての湯気がふわりと立って、甘い匂いが鼻先をくすぐった。
つやつやと立った米を茶碗に盛り、南瓜の天ぷらをのせて、麦茶をひと口。ありふれた食卓だ。何も特別なことはない。
外では、夜のはじまりの虫が、遠慮がちに鳴き出していた。
◇◇◇
しばらく、俺たちは黙って箸を進めた。
沈黙が気まずくない相手というのは、案外貴重だ。三上とは昔からそうだった。会社にいた頃も、残業の合間に缶コーヒーを二つ買って、非常階段の踊り場で何も喋らずに飲んだりした。
あの頃は、二人とも喋る気力すら残っていなかっただけかもしれないが。それでも、隣に誰かがいるというだけで、あの冷たいコンクリートの階段は、ほんの少しだけ暖かかった。
麦茶のグラスの表面に、細かい水滴がびっしりと浮いている。それを指でひとなでして、俺はまた一口飲んだ。夏の夜に、冷えた麦茶ほど正しいものはない。
俺がししとうに塩を振っていると、ふと、向かいの箸の音が止まった。
顔を上げる。三上は、茶碗を手にしたまま、うつむいていた。
箸の先が、宙で止まっている。肩が、小さく震えていた。
「……三上?」
返事はない。かわりに、彼の頬を、つう、と一筋、光るものが伝って落ちた。それは顎の先で震え、白い飯の上に、ぽたりと落ちた。
俺は塩の小皿を置いて、口を閉じた。何か言うべきなのか、迷った。だが、たぶん今は、何も言わないほうがいい気がした。
三上は、空いた手で乱暴に目元を拭う。それでも、涙は次から次へと湧いてきて、止まらないようだった。
「……ごめん」
絞り出すような、小さな声だった。
「なんでもない。ほんと、なんでもないんだ。ただ……」
彼はそこで言葉に詰まり、洟をすすった。茶碗を座卓に戻す手が、かすかに震えている。
「こんなに、ちゃんと休んだの……久しぶりで。なんか、飯食ってたら、急に……自分でも、わけ分かんないんだけど」
ああ、と俺は思った。ほどけたんだな、と。
都会で、ずっと張り詰めていたもの。一分ごとに鳴る通知、詰められる会議、眠れない夜。そういうものを、歯を食いしばって握りしめていた指が、この山の数日で、いつのまにか、ゆっくりとほどけていったのだ。
張っていた糸が切れたわけじゃない。ただ、力を抜いていいと、体がようやく気づいた。それだけのことだ。
俺は急かさなかった。慌てもしなかった。
ただ、彼の空いた湯呑みに、冷えた麦茶をとぽとぽと注いだ。
「ゆっくりでいいよ」
注ぎ終えて、俺は言った。
「ここには、急ぐものなんて、何もないから」
◇◇◇
三上は、両手で顔を覆って、しばらく声を殺して泣いていた。
肩が上下するのに合わせて、座卓の上の湯気が、ゆらゆらと揺れる。俺は自分の飯を、静かに食べながら、それを見ていた。見ていた、というより、そばにいた、という感じだった。
妙なことに、その時、三上の肩のあたりが、ほんのりと暖かく見えた。
かまどの火が届く距離ではない。なのに、まるでそこだけに小さな熾火でも置いたみたいに、彼の背中がやわらかく橙に染まって見える。
「……エン。お前、そこにいるのか」
俺は、誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
目を凝らせば、赤いサラマンダーが、三上の肩のあたりで、尻尾の火をいつもより小さく、静かに揺らしていた。いつものように「めしだぜ!」とはしゃぐでもなく、ただ、じっと寄り添っている。
その足元には、まんまるの苔玉が転がって、心配そうに三上を見上げていた。窓辺では、ぷるぷるした半透明のが、湯呑みの水を澄ませながら、いつもより静かにぷかぷかしている。
三上には、こいつらは見えていない。声も、届いていない。
それでも、こいつらが今、こいつのそばにいてやろうとしているのは、俺にはよく分かった。
「……お前ら、優しいなあ」
俺は誰にも聞こえないように、口の中だけで笑った。客が泣いていると、こいつらまで、そっと寄ってくる。
ふと、思う。
一年前、俺が本当に欲しかったのは、たぶん、こういう時間だったんじゃないか。
うまい飯を、誰かと黙って食う時間。泣きたくなったら泣いていい、と思える場所。急がなくていい、と言ってくれる誰か。あの頃、鏡の中の俺は、この男とそっくりの顔をしていた。
でも、あの時、隣にはこんなふうに麦茶を注いでくれる奴はいなかった。だから、俺は一人で山まで逃げてきた。
――だったら、今、俺がやればいい。
俺は箸を置いて、少しだけ言葉を選んでから、口を開いた。
「泣けるなら、大丈夫だ」
三上が、顔を覆ったまま、かすかに動く。
「泣けなくなったら、そっちのほうがまずい。……俺も、そうだったから」
言ってから、少し照れくさくなって、俺は麦茶をぐいと飲んだ。柄でもないことを言った気がする。まあ、六十点ってとこか。
三上は、しゃくり上げながら、小さく頷いた。何も言わなかったが、その頷きだけで、十分だった。
◇◇◇
どれくらい、そうしていただろう。
やがて三上は、大きく洟をすすって、顔を上げた。目のふちは真っ赤で、頬にはまだ涙の跡が光っている。それでも、来た時のあの、青ざめて強張った顔とは、もう別人だった。
彼は、洟をすすったまま、少しだけ、笑った。
「……なんか、すっきりした」
照れ隠しのように、彼は座卓の飯に目を落とす。そして、湯気の消えた茶碗を見て、ふっと肩の力を抜いた。
「あーあ。飯、冷めちゃったな」
俺は、その顔を見て、なんだか嬉しくなった。冷めた飯の心配ができるくらいには、こいつはもう、戻ってきている。
俺は立ち上がって、羽釜を抱え、かまどのほうへ足を向けた。
「炊き直すよ。いくらでもある」
かまどの前にしゃがんで、消えかけた薪に新しいのをくべる。ふっと息を吹きかけると、火はすぐに、機嫌よく燃え上がった。
三上の肩のほうを、ちらりと見る。橙の暖かさは、まだそこにあった。
「揚げたてのも、もう一回揚げてやる。今度は、涙で味が濃くなってるかもしれないぞ」
「……うるさいよ」
背中で、三上が笑うのが聞こえた。今度のは、無理して張った笑いじゃなかった。
かまどの火が、ぱちりと爆ぜる。羽釜の水が、静かに温まり始める。
急ぐものなんて、何もない。飯なら、いくらでも炊けるのだから。




