第169話
昼下がりの縁側は、日向と日陰の境目がいちばん心地いい。
俺はその境目に胡座をかいて、鎌の刃を砥石で研いでいた。しゃり、しゃり、と単調な音だけが、蝉の声の隙間を埋めていく。急ぎの仕事でもないから、手は勝手に動くに任せておく。
刃の返りを指の腹で確かめては、また水をひと差し。前の職場なら「その作業、来月まででいいですか」と即答して回されていたたぐいの、後回しにしても誰も困らない用事だ。それを、こうして真昼間から堂々とやれる。ずいぶん贅沢な段取りになったものだと、我ながら思う。
隣では、三上が背中を丸めて舟を漕いでいた。膝の上に文庫本を伏せたまま、顎がかくんと落ちては、はっと持ち上がる。あれをもう何度繰り返しているだろう。
「寝るなら、奥で横になってこいよ」
声をかけると、三上はうっすら目を開けて、気の抜けた笑い方をした。
「……いや、いい。ここが、いちばん気持ちいいんだよ」
そうかい、と俺は手元に視線を戻す。都会にいた頃のこいつなら、昼間にこんな顔で寝落ちるなんて、絶対にしなかった。いつも何かに追われて、肩をいからせて、休むことにすら理由を探すような男だったのだ。……一年前の俺と、そっくりそのままに。
ふと見ると、三上の膝の上に、見慣れたモフモフが乗っかっていた。
コロだ。苔玉みたいな体を、伏せた文庫本の脇にちょこんと収めて、まんまるの目を細めている。こいつまで一緒になって、うたた寝を決め込んでいるらしい。
三上には、当然コロは見えていない。膝の上に精霊が一匹寝ているなんて、夢にも思わないだろう。それでもこいつは、無意識にその一角を、払うでも避けるでもなく、そっと空けたままにしている。
湯呑みに目をやれば、縁のところでスイがぷかぷか揺れていた。三上が飲み残した麦茶を、いつのまにか澄んだ湧き水みたいに透き通らせている。得意げに身を反らせて、俺のほうをちらりと見た。褒めろ、という顔だ。
まあ、飲み残しをわざわざ澄ませたところで、三上が気づくわけでもないんだが。それでもこいつらは、客が来ると妙にせっせと働く。人が喜ぶ気配そのものが、好物なのかもしれない。
縁側の端では、エンが日向で腹を出して伸び、その隣でモクが腕を組んだまま、うつらうつらしている。
……この光景は、なんだ。
うちの精霊が四匹揃って、客の周りでだらけている。番犬にも案内係にもならず、ただ気持ちよさそうに寛いでいるだけだ。
「お前ら、すっかりあいつに懐いたな」
小声で言うと、エンが尻尾の火を面倒くさそうにひと揺らしした。肯定、ということらしい。可笑しくなって、俺は鼻から息を漏らした。
◇◇◇
午後の光が、ゆっくり傾いていく。
目を覚ました三上は、今度は庭の柿の木の下へ移って、また本を開いた。木陰を抜ける風が、勝手にページをめくっていく。読んでいるのか、ただ緑を眺めているのか、傍目には分からない。
来た当初のこいつは、何もしていない自分を、しきりに気にしていた。
「悪いな、俺だけ、こんなにだらけてて」
口癖のようにそう言っていた。それが、この数日ですっかり減った。今はただ、木陰にいる。何もしないことに、罪悪感を覚えなくなってきたらしい。
いいことだ、と思う。休むのに、理由なんていらない。それを思い出すためだけに、俺だってこの山まで逃げてきたようなものだ。
何もしない、というのは案外、覚えるのに時間のかかる技術なのだと思う。手も頭も、動いていないと落ち着かないように出来上がってしまっている。散らかった机を放っておく、あの居心地の悪さに似ている。それを、山はゆっくりほどいてくれる。三上の背中も、日ごとに丸くやわらかくなってきた。
それにしても、と俺は砥ぎ上げた鎌を陽にかざす。客をもてなしてるだけなのに、なんでこいつ、こんなに居心地よさそうなんだろうな。
◇◇◇
夕方。
日が山の端に触れる頃、俺たちは縁側に並んで座っていた。茜色に染まった空を、烏が二羽、鳴きながら横切っていく。三上は湯呑みを両手で包んで、何を言うでもなく、ずっと山を眺めていた。
やがて、こぼすように、ぽつりと言った。
「この山、なんか……居心地がいいな」
俺が横を見ると、三上は照れたように鼻の頭を掻いた。
「うまく言えないんだけど。ここにいると、勝手に、ほどけていくんだ。肩とか、頭とか……ずっと固まってたやつが、ぜんぶ」
へえ、と相槌を打ちながら、俺は少しだけ引っかかった。その言い回しに、妙に覚えがある。そういえば、前にも誰かが、うちに来て同じことを言っていた気がする。湯上がりに、ぼんやりと。……はて、誰だったか。
まあ、思い出せないなら、大したことじゃないんだろう。俺は湯呑みを傾けて、大きく伸びをした。ここが居心地いいなら、それでいい。そう言ってもらえるのが、単純に、嬉しい。
夕日が、山向こうへ静かに沈んでいく。三上の膝では、相変わらずコロが丸くなっていた。見えない客と、見えない主のあいだに、そっと寄り添うみたいにして。




