第167話
翌朝、俺は日が高くなる前に三上を叩き起こした。露天風呂ですっかり骨抜きになった男は、寝ぼけまなこで縁側に出てきて、俺が差し出した軍手を怪訝そうに受け取った。
「畑? 俺が?」
「ああ。飯の前に、ちょっと手伝ってくれ。人手があると助かる」
三上は明らかに戸惑っていた。土いじりなんて、生まれてこのかた縁がなかったのだろう。
まあ、無理もない。一年前の俺だって、鍬の持ち方すら知らなかったのだから。
軍手をはめる手つきが、いかにもぎこちない。指の股までしっかり入れてやれよ、と俺が笑うと、ようやくきちんとはまった。
それでも文句は言わず、あくびを噛み殺しながら、俺の後ろについて段々畑まで下りてきた。
朝露をまとった夏野菜が、畝いっぱいに葉を広げている。トマト、ナス、キュウリ、それに実をつけ始めたピーマン。
むわりと立ちのぼる、土と青草の匂い。都会の空気とはまるで違う、濃くて青い匂いだ。
三上が、思わずといった顔で大きく息を吸い込むのが分かった。
「まずは草むしりだ。野菜の根元に生えてるやつを、こう、根から引っこ抜く」
俺が実演してみせると、三上はおそるおそる屈み込んで、雑草の茎をつまんだ。
「力任せに引くと、途中で千切れる。根元を持って、まっすぐ上に。土ごと持ち上げるつもりでな」
「こう、か?」
最初はぷつぷつ千切れてばかりだったのが、何本かやるうちにコツを掴んだらしい。ずぼっと根ごと抜けたとき、三上は妙に嬉しそうな顔をした。
「お、抜けた。……なんか、気持ちいいな、これ」
だろ、と俺は笑う。土に食い込んだ根が、ぷちぷちと切れながら剥がれてくる、あの手応え。理屈じゃない、掌が直接おぼえていく感触だ。
掌に伝わる、湿った土のひんやりした感触。指の股に入り込む黒い粒。しゃがみ続けた腰が、じわりと張ってくる。
額を伝った汗が、ぽたりと畝に落ちて、乾いた土に小さな染みをつくった。
デスクとキーボードしか触ってこなかった手が、久しぶりに"物理"に触れている。
抜いた草は畝のあいだにまとめて寄せておけば、そのうち枯れて土に還る。無駄が一つもない。そういう理屈を教えてやると、元同僚は「効率いいな」と、変なところで感心していた。
◇◇◇
草をあらかた片づけると、次は追肥だ。株の脇に浅く溝を切って、ひとつかみの肥料をぱらぱらと撒き、土をかぶせてやる。
「これで、実がぷっくり太る。腹が減ったら飯を食う、それと同じだな」
溝は深すぎると根を傷める。指の第一関節ぶんくらい、浅くていい。撒いたら、そっと土の布団をかけてやる。
「なるほど……野菜も、飯を食うのか」
三上は真顔で頷きながら、見よう見まねで肥料を撒いていく。その足元で、俺の目にだけ見えるまんまるの苔玉が、ころんと転がっていた。
コロだ。撒かれた肥料に頬をすりよせて、うっとりと目を細めている。
「このおやさい、ぷりぷりに育つよぉ」
言うが早いか、三上が肥料をやった株のまわりの土が、ふわりと色濃く、やわらかくなった。まったく、客が来ると張り切るやつだ。
当の三上は何も気づかず、額の汗を手の甲でぬぐっている。土のついた甲で拭ったせいで、頬に泥の筋がついたが、指摘しないでおいた。
最後に、トマトの脇芽を摘む。主枝と葉の付け根から伸びる、余計な芽。
「これを摘んでおくと、養分が実のほうに回る。ぷちっと、爪でつまむだけでいい。放っておくと、こいつが枝ばかり茂らせて、実に栄養が行かなくなる」
三上は言われたとおり、細い脇芽の付け根を指先でつまみ、ぷつりと折った。青くさい汁が、軍手にうっすら緑の色を移す。
「間引くのか。もったいない気もするな」
「全部育てようとすると、共倒れになる。捨てる勇気ってやつだな」
言いながら、俺はふと苦笑した。仕事を抱え込んで潰れかけていた昔の自分に、そっくり同じことを言ってやりたかった。
三上は、赤く色づいたミニトマトの房を、まぶしそうに見上げた。
俺は一番よく熟れた一粒をもいで、ほら、と差し出す。三上が受け取るより早く、その口へぽいと放り込んでやった。
「……甘っ」
噛んだ瞬間、三上の目がまん丸になった。
「何だこれ、果物みたいだ。トマトって、こんな味だったか?」
「トマトは、ただのトマトなんだけどなあ」
俺は苦笑した。何をそんなに驚くことがあるのか。
「まあ、採れたては違うよな。スーパーのとは、鮮度がな」
三上はもう一粒くれと催促してきて、俺は笑って房ごと渡してやった。都会の胃袋に、山のトマトはよほど沁みるらしい。
◇◇◇
ひとしきり働いて、二人して畝の脇に腰を下ろした。蝉の声が、朝の斜面に降りそそいでいる。
三上は軍手を外し、土で汚れた自分の両手を、しげしげと眺めていた。爪の間に黒い土が入り込んで、掌にはうっすら赤い痕。
昨日まで、青白い顔でスマホばかり握っていた手だ。
「……土いじりって」
三上が、ぽつりと言った。
「なんか、落ち着くな。頭が、空っぽになる」
俺は横目でその顔を見て、なんとなく嬉しくなった。
答えは返さず、もいだトマトをもうひとつ、そいつの掌にのせてやった。




