第166話
夕方、畑仕事をひと通り終えて、俺は縁側でぼんやりしている三上に声をかけた。
「風呂、沸いたぞ。露天風呂だ。入ろうぜ」
三上は気の抜けた顔で見上げ、「露天……風呂?」と、間の抜けた声を返す。都会のユニットバスしか知らない顔だ。一年前の俺も、たぶん同じ顔をしていた。
◇◇◇
母屋の裏手、山の斜面を少し削って、俺は自分で湯船をこしらえた。石を組み、山の湧き水を引いて、下から薪でじっくり焚く。
手間はかかったが、その手間ぶんだけ、湯に浸かる時間が愛おしくなる。都会じゃ、蛇口をひねれば湯が出るのが当たり前だったが、ここでは風呂ひとつが、ちょっとした行事なのだ。
今日も昼過ぎから薪をくべ、時間をかけて沸かしておいた。焚き口からは、乾いた木の燃える匂いが、細く立ちのぼっている。
この匂いを嗅ぐと、ああ今日も一日終わったな、という気になるから不思議だ。都会にいた頃は、一日の終わりに匂いなんてなかった。ただ、疲労だけがあった。
二人で手ぬぐいを肩にかけ、湯気の立つ湯船へ向かう。夕日を吸った山肌が、赤みを帯びてやわらかい。三上は、湯気の柱を見上げて、少し気圧されたように立ち止まった。
湯の縁では、半透明のスイが、ぷかぷかと機嫌よく揺れていた。
「あるじ、今日のお湯は、最高の仕上がりですわ」
得意げに身をよじって、スイは湯面をそっと撫でる。おかげで湯は塵ひとつなく澄み、いつまでも冷めずにいる——のだが、もちろん三上には、その姿も声も届いていない。
俺は苦笑して、かけ湯をひとすくい。掌ですくった湧き水は、相変わらず、指紋まで透けそうなほど澄んでいた。
「……ああ、生き返る」
先に体を流し、そろりと肩まで沈める。じんわりと、芯の芯まで熱が染みてきて、思わず声が漏れた。
遅れて三上が、そろそろと体を流し、おっかなびっくり湯に足を入れる。「熱っ……あ、いや、ちょうどいい」と、ひとりで慌てながら、ゆっくり腰を下ろした——その瞬間だった。
三上が、大きく息を吐いた。肺の底にずっと溜め込んでいたものを、全部押し出すみたいに、長く、長く。そのまま、言葉を失っている。
岩を組んだ湯船。立ちのぼる湯気の向こうに、夏山の緑が濃くにじむ。頬を、ひんやりした風がすっと撫でていく。
都会でかちかちに凝り固まっていた芯が、湯の熱にじわりとほどけていくのが、隣で見ていても分かった。肩が下がり、こわばっていた首筋から、ゆっくりと力が抜けていく。
俺にも覚えがある。この山に来て初めて湯に浸かった夜、俺もたぶん、今の三上とそっくりな顔をしていたはずだ。
「……ヤバい」
三上が、放心したように空を見上げる。
「溶ける。骨まで溶ける」
俺は思わず噴き出した。ずいぶんな感想だが、気持ちは分かる。この湯は、なぜだかよく効くのだ。
「そんなに効くか? まあ、自作の風呂だけどな。喜んでもらえて何よりだよ」
俺は湯の中で手足を伸ばし、梁のかわりの夏空を見上げる。実のところ、この湯がどうしてこんなに効くのか、俺自身、うまく説明はつかない。
まあ、山の水がいいんだろう。そう思っておけば、たいていのことは片がついた。
スイが、湯の縁でますます得意げに揺れている。湯がぬるみかけると、誰かがそっと熱を足すみたいに、いちばん気持ちのいいところで温度が保たれるのが、俺には見えた。
「保温、ばっちりだな」
誰にともなく呟いてみる。石と水の造りにしては上出来だ。我ながら、いい風呂を作ったものだと思う。
三上はもう、何も喋らない。ただ湯に身を預けて、暮れていく山をぼんやり眺めている。
都会にいた頃の、あの追い立てられるような目つきが、湯気の中で少しずつ溶けて、消えていく。いい顔になってきたな、と俺は思った。
◇◇◇
のぼせる手前で、二人して湯から上がった。
火照った体に、山の夕風が気持ちいい。三上は濡れた髪のまま、脱衣場がわりの縁台にぺたりと座り込んで、ぼうっと山を眺めている。
その横顔を見て、俺は少し驚いた。
来た時は青白くて、生気の抜け落ちていた頬に、ほんのりと赤みが差している。目の下の濃い隈も、心なしか薄くなった気がする。たった一度、湯に浸かっただけで、だ。
「……なんだこれ」
三上が、自分の手のひらを、不思議そうに開いたり閉じたりしながら呟いた。
「何年ぶんかの疲れが、一気に抜けた気がする」
俺は汲みおきの湧き水をコップに注いで、一杯、差し出してやる。
「だろ? 山の湯は、よく効くんだ」
三上はそれを、ひと息に飲み干した。火照った体の内側を、清らかな冷たさが通り抜けていくのが、傍目にも分かる。喉を鳴らすその音まで、なんだか、生き返ったみたいに聞こえた。
空になったコップを両手で持ったまま、三上は暮れかけた山を、しばらく黙って眺めていた。
「……こんな風呂に毎日入ってたら、そりゃ、お前も変わるわけだ」
しみじみとそう漏らす三上に、俺は「大げさだよ」と笑って、脱いだ手ぬぐいを絞る。
喜んでもらえたなら、作った甲斐があったというものだ。湯の縁では、スイがまだ、満足げにぷかぷか揺れていた。




