第165話
翌朝、三上は何もしなかった。
起きてはきたものの、顔を洗って、飯を食って、それからずっと、縁側に座ったままだ。俺は俺で、何も急かさない。休みに来たやつを追い立てるほど、無粋なことはない。
欠けた湯呑みに茶を注いでやると、三上は両手で包むように受け取った。
「悪いな、なんか。……何もしてなくて」
「気にすんな。何もしないために来たんだろ。俺も、隣で好きにやってるだけだ」
言って、俺は縁側の端に道具箱を広げた。鎌の刃こぼれが、前から気になっていたのだ。砥石を出して、水をひたして、ゆっくり刃を滑らせる。しゃり、しゃり、と単調な音が、朝の山にひとつだけ響いた。
三上は、その音を聞くともなしに聞きながら、山を眺めている。研ぎの音は、耳障りじゃないらしい。むしろ……単調なぶん、心地よさそうにも見えた。
濃い緑が、幾重にも重なった稜線。蝉の声が、遠くで途切れては、また満ちる。ここには急ぐものが何もなくて、時間だけが、水のようにゆっくり流れていく。
刃をひっくり返し、また滑らせる。急ぐ仕事じゃない。よく切れる鎌ができれば、それでいい。こういう手仕事の時間が、俺はいつのまにか、好きになっていた。
街にいた頃の俺には、この「何もない」が、たぶん耐えられなかった。今は、これがいちばんの贅沢だと知っている。
◇◇◇
最初のうち、三上はスマホを握って離さなかった。
昨日からずっとそうだ。膝の上に置いて、数分おきに画面を点けては、また消す。都会にいた頃の俺も、たしかこうだった。一分ごとに何かが鳴って、返さないと落ち着かなくて、指はいつも、無意識に画面をなぞっていた。
でも、この山は圏外に近い。麓まで下りないと、電波なんて満足に立たない。
だから三上のスマホは、朝から一度も鳴っていない。鳴らないものを握りしめていても、しょうがない。そう体でわかってきたのか、昼近くになって、三上はそれを座卓の上に、画面を伏せて、そっと置いた。
「……ここ、ほんとに繋がらないんだな」
「ああ。不便だろ」
「いや」
三上は、少し困ったように笑った。
「……なんか、ほっとする」
置いたことにも、たぶん本人は半分気づいていない。俺は研ぎの手を止めて、ふと、その伏せたスマホに目をやった。
黒い背中の上で、赤いとかげが一匹、腹を出してだらしなく寝そべっている。エンだ。日の当たる縁側の、いちばんあたたかい場所を選んで、尻尾の火をゆらゆらさせながら、いい気なものだった。
「そこ、あったかいのか?」
思わず苦笑して、小声で聞いた。三上には見えないし、聞こえない。エンは薄目を開けて、満足そうに尻尾をぱたりと振っただけだった。
◇◇◇
午後も、俺は俺の暮らしをした。
畑を見に行って、トマトの様子を確かめ、色づいたやつをいくつか採る。茄子の葉に虫がついていないか、屈んで一枚一枚めくって見て回る。戻ってきて、採れたてを井戸水で冷やしておく。特別なことは、何ひとつしていない。
畝のあいだを歩いていると、足元の土がやわらかい。前の持ち主が放り出した荒れ地とは、もう別物だ。一年かけて、少しずつ耕して……気づけば、そこそこ様になっていた。
三上は、その一部始終を、縁側からぼんやり眺めていた。
手伝おうか、とも言わない。何をしているのか、とも聞かない。ただ、目の前をゆっくり過ぎていく他人の暮らしを、眺めている。都会じゃ、こんなふうに何もしない時間なんて、罪みたいなものだったんだろう。
俺は井戸端から縁側を振り返って、少しだけ思った。
退屈させてるかな。
「……まあ、退屈するくらいが、今のこいつには、ちょうどいいか」
冷えたトマトをふたつ持って戻ると、三上は「うまそうだな」とだけ言って、丸ごとかじった。果汁が顎を伝うのも構わずに、二口、三口。それから、また山のほうへ視線を戻す。
「……昔さ」
ぽつりと、三上が言った。
「昼飯、いつもデスクで、片手で食ってた。何食ったかも、覚えてないんだよな」
俺は、返事のかわりに、自分もトマトをかじった。かける言葉なんて、たぶん要らなかった。……何食ったか覚えてない飯を、俺も、ずいぶん長いこと食ってきたのだ。言葉は、それきり途切れた。でも、少しも気まずくはなかった。
◇◇◇
日が沈むと、山はいっそう静かになった。
飯を食い、風呂を沸かし、灯りをひとつ点けただけの縁側で、俺たちは並んで座っていた。もう、蝉は鳴いていない。かわりに、暗がりのそこかしこから、虫の声が湧いてくる。
りいん、りいん、と。夜の底を満たすように、それだけが響いている。
三上は膝を抱えて、その闇のほうを、じっと見ていた。ずいぶん長いこと、黙ったままだった。街の夜とは、たぶん何もかも違う。信号も、看板も、絶えないエンジン音も……ここには、何もない。
やがて、身震いでもするように、ぽつりと呟いた。
「……静かだな」
声が、少しかすれていた。
「怖いくらい、静かだ」
俺は、茶を啜る手を止めた。それは、ここが静かだという話じゃなかった。ずっと騒音の中にいた自分に、こいつはたぶん、今はじめて気づいたのだ。




