第163話
荷物を土間に置いた三上は、居間に上がってからも、どこか落ち着かない様子で立っていた。座れと言っても、遠慮がちに膝の先だけをちょこんと畳に乗せる。
顔色は、車で登ってくる間よりはいくらかましになったが、まだ青い。目の奥に、疲れがべったり張りついている。
「なあ結城、俺、その、いろいろあってさ」
三上が、何か説明しようと口を開きかけた。言い訳めいた前置きが、ぼそぼそと続きそうになる。
俺は片手を軽く上げて、それを止めた。
「細かいことは、あとでいい」
冷えた麦茶を注いだ湯呑みを一つ、三上の前に置く。
「疲れてるなら、まず休め。話はそれからでいい」
三上は何か言いかけて、結局「……悪いな」とだけ、小さく頭を下げた。
喉が渇いていたのだろう。湯呑みを両手で包むように持って、こくこくと半分ほど、一息に飲んだ。
事情なんて、根掘り葉掘り聞き出す気はなかった。追い詰められた人間に必要なのは、たいてい説明の場じゃない。ただ、力を抜いて座れる場所だ。
一年前、同じ顔をしていた男を、俺は毎朝、鏡の中で見ていた。だから、聞かなくても大体わかる。
◇◇◇
客間に使っている奥の六畳を、ひとまず人の泊まれる形に整えることにした。
しばらく使っていなかったから、畳はうっすら埃をかぶっている。バケツに水を汲んで雑巾を固く絞り、目に沿ってすうっと拭いていく。
一拭きごとに、藺草の乾いた匂いが立って、畳がほんのり色を取り戻していく。こういう、手をかけた分だけ結果が見える作業は、昔から性に合っている。
次に、障子と窓を開け放って、風を通す。
こもっていた空気がゆっくり入れ替わって、山からの風が、部屋の隅々まで抜けていく。網戸越しに、蝉の声と、青い草の匂いが流れ込んできた。
押し入れから客布団を引っ張り出すと、これも少し湿気ていた。畳んだ折り目に、しっとりと重い感触が残っている。
縁側の物干し竿に、掛け布団と敷布団を一組ずつ掛けて、夏の日にあてておく。ぱんぱんと軽く叩くと、細かい埃が日差しの中でちらちら舞った。
昼下がりの日差しは、布団を干すにはちょうどよかった。数時間もあれば、ふっくら乾いて、日向の匂いになるだろう。
最後に、畑の脇に咲いていた花を一輪、摘んできて、窓辺のコップに挿した。
なんとなく、殺風景な部屋に一つあるといいかと思っただけだ。深い意味はない。
そのとき、視界の隅で、小さいのがちょろちょろ動いた。
部屋の隅で、コロが苔玉をころんと転がしている。まんまるの目で、いかにも「お手伝いしてるの」とでも言いたげな顔だ。
窓辺では、スイが花を挿したコップの縁をのぞき込んで、その水が、上から下へ、すうっと澄んでいく。モクは畳の際にへばりついて、建て付けの緩んだところを、こそこそ押し込んで直しているらしい。
「お前ら、客が来ると張り切るなあ」
俺は、つい笑ってしまった。
「……客間を、整えただけなんだけどな」
精霊たちの声も姿も、三上には届かない。俺にだけ見える光景だ。まあ、賑やかで悪くない。
◇◇◇
整った客間に、三上を通す。
乾ききってはいないが、風を通した布団を仮に敷いて、俺は言った。
「無理せず、好きなだけいろよ」
三上が、恐縮しきった顔でこっちを見る。
「いや、でも、そんな、急に押しかけて」
「飯の時間だけ教えてくれれば、あとは自由でいい。寝てても、ぼーっとしてても、誰も文句言わないから」
俺があんまり気楽に言うものだから、三上の肩から、ようやく少し力が抜けた。強張っていた口元が、ほんのわずかにゆるむ。
「……お前、変わったな」
ぽつりと、三上が言った。都会にいた頃の俺は、たぶんもっと尖っていて、余裕がなかった。
そうかな、と俺は肩をすくめる。自分ではよくわからない。ただ、山に来てからこっち、あくせくする理由が、一つずつ減っていっただけだ。
窓辺の花が、入ってきた風に、ちょっとだけ揺れた。澄んだ水の中で、茎がまっすぐ立っている。
三上は、遠慮がちに布団の端へ腰を下ろした。そのまま、吸い込まれるように、ごろりと横になる。
「ちょっとだけ、横になるわ。すぐ起きるから」
そう言ったそばから、返事はもう、寝息に変わっていた。
あっという間だった。昼過ぎだというのに、まるで糸が切れたみたいに、深く眠っている。よほど、まともに眠れていなかったんだろう。
薄く開いた口から、規則正しい寝息が漏れている。その顔だけは、来たときよりずっと、幼く見えた。
起こすのも悪い。俺は敷きかけの布団に、乾いたタオルケットを一枚、そっとかけてやった。
音を立てないように、廊下へ出て、障子を静かに引く。
「……ゆっくり寝ろ」
閉めきる直前、隅にいたコロが、寝ている三上のほうへ、苔玉をころんと転がしていった。まるで、そばで見張っているつもりらしい。
縁側に出ると、干した布団が、山の風にゆっくり膨らんでいた。日向の匂いが、もう立ちはじめている。
夕方には、これをふかふかに敷き直してやろう。飯は、あいつが起きてからでいい。
急ぐものなんて、この山には何もないのだから。




