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山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


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162/209

第162話

 電話から数日、俺は軽トラのハンドルを握って、麓の駅まで下りていた。


 山道を十五分、県道をさらに二十分。普段は野菜の直売所に卸すくらいしか出てこない駅前だが、今日は人を迎えに来た。改札はひとつきりの、無人みたいに静かな小さな駅だ。


 時刻表どおりに、二両きりの電車が滑り込んでくる。降りてきたのは数人。その中に、見覚えのある背格好を見つけて、俺は片手を上げかけた。


 ……そのまま、少し固まってしまった。


 三上だった。間違いなく三上なのだが、記憶の中の姿とは、ずいぶん違う。夏だというのに皺の寄ったスーツを着て、その肩が、荷物の重さでもないのに落ちている。顔は日に灼けたことのない紙みたいに白く、目の下には濃い隈が刻まれていた。


 なにより、目に力がない。焦点が半歩ぶん、いつも遅れてくるような。


「よう、久しぶり」


 三上が、俺を見つけて笑った。無理に口角を持ち上げた、いかにも作った笑みだ。その笑い方にまで、俺は覚えがあった。


「ああ、久しぶり。よく来たな。荷物、それだけか」


 旅行鞄をひとつ、ほとんど奪うように受け取って、俺は助手席のドアを開けた。持ってみると、鞄はやけに軽い。数日泊まる荷物にしては、心もとないくらいだ。着替えを詰める気力も、たぶん残っていなかったんだろう。


 三上は「悪いな」と小さく言って、のろのろと乗り込む。動作のひとつひとつが、電池の切れかけた玩具みたいだった。シートに沈み込むと、それだけで小さく息を吐く。


「腹、減ってないか。なんか買ってから登るか」


「……いや、大丈夫。今は、いい」


 食欲もないらしい。俺は無理に勧めず、エンジンをかけた。そのあたりの押し引きは、なんとなく、体で分かる。急かされるのが、いちばんこたえる時期だ。


◇◇◇


 軽トラは県道を抜け、山道に入っていく。


 曲がりくねった上り坂を、エンジンを唸らせて登る。窓の外を、濃い夏の緑が流れていった。蝉の声が幾重にも降ってきて、木々の隙間から漏れた光が、ちらちらとフロントガラスを滑っていく。


「なんもないとこだろ。コンビニまで、車で三十分だぞ」


「……いや。いいよ、これで」


 三上は窓に頭を預けて、外をぼんやり眺めていた。返事も、口先だけで転がしたような、力のない声だ。


 まあ、しゃべりたくないなら、しゃべらなくていい。俺はラジオもかけず、ただハンドルを切った。無言のドライブというやつも、山道じゃそう悪いものでもない。むしろこの道は、黙って窓の外を眺めているのが、いちばん贅沢な過ごし方だと思う。


 俺は前を向いたまま、横目でその横顔をうかがった。青白い頬、うつろな目、丸まった背中。


 昔の俺を、鏡で見てるみたいだ。


 一年前、山に来たばかりの頃、洗面所の割れた鏡に映っていたのは、たしかにこんな顔だった。……あの頃の俺、こんなにひどい顔してたのか。よく生きてたな、と我ながら思う。


 もっとも、その感慨も長くは続かない。今の俺は、朝は鳥の声で起きて、飯をうまいと感じて、夜はぐっすり眠っている。過ぎたことは、ずいぶん遠い。


 標高が上がるにつれ、空気が変わっていく。窓を少し開けると、ひんやりした山の匂いが車内に流れ込んできた。土と、葉と、どこかの沢の湿った匂い。


 その風を、三上が吸い込んだ。


 最初は無意識だったんだろう。ただ、ふっと、こわばっていた肩から、力がひとつぶん抜けたのが分かった。窓を眺める目が、さっきより少しだけ、外の景色をちゃんと映している。


 道が一段高いところに出ると、木の切れ間から、青い山並みが遠くまで折り重なって見えた。都会のビルの谷間じゃ、こんなに遠くまで視線が届くことなんて、まずない。視界が広がると、なぜだか胸のあたりまで、少し広くなる気がする。


「……でかいな、山」


 三上が、ぽつりと言った。今日はじめて、外に向かって出てきた言葉だった。


 俺は、それに気づかないふりをして、運転を続けた。急かすものは、この道には何もない。


◇◇◇


 最後の急坂を登りきると、山の中腹に、俺の古民家が見えてくる。


 苔むした瓦、少し歪んだ雨戸、庭の隅にちんまり建った直売所。一年かけて、俺なりに手を入れてきた我が家だ。相変わらずの立派なボロ家だが、住んでみると、これがなかなか居心地がいい。


 その前の空き地に、俺は軽トラを停めた。助手席の三上は、フロントガラス越しに古民家を見上げて、何か言いたげに口を開き、けっきょく何も言わなかった。


 肩に乗っていた苔玉みたいなやつが、ふわりと軒先へ飛んでいく。相変わらず、客が来ると落ち着かないらしい。


「着いたぞ。ここだ」


 エンジンを切ると、蝉の声と、風が梢を撫でる音だけが残った。三上はしばらく、シートに座ったまま動かなかった。


 やがて、のろのろとドアを開けて、外に出る。


 そして、伸びをした。両腕を空へ突き上げて、背骨をぎしぎし鳴らすみたいに、大きく大きく。そのまま、胸いっぱいに息を吸い込んだ。


 夏の午後の光が、その白い顔に、まだらに落ちている。


「……空気、うまいな」


 ぽつり、と。三上は、そう漏らした。


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