第162話
電話から数日、俺は軽トラのハンドルを握って、麓の駅まで下りていた。
山道を十五分、県道をさらに二十分。普段は野菜の直売所に卸すくらいしか出てこない駅前だが、今日は人を迎えに来た。改札はひとつきりの、無人みたいに静かな小さな駅だ。
時刻表どおりに、二両きりの電車が滑り込んでくる。降りてきたのは数人。その中に、見覚えのある背格好を見つけて、俺は片手を上げかけた。
……そのまま、少し固まってしまった。
三上だった。間違いなく三上なのだが、記憶の中の姿とは、ずいぶん違う。夏だというのに皺の寄ったスーツを着て、その肩が、荷物の重さでもないのに落ちている。顔は日に灼けたことのない紙みたいに白く、目の下には濃い隈が刻まれていた。
なにより、目に力がない。焦点が半歩ぶん、いつも遅れてくるような。
「よう、久しぶり」
三上が、俺を見つけて笑った。無理に口角を持ち上げた、いかにも作った笑みだ。その笑い方にまで、俺は覚えがあった。
「ああ、久しぶり。よく来たな。荷物、それだけか」
旅行鞄をひとつ、ほとんど奪うように受け取って、俺は助手席のドアを開けた。持ってみると、鞄はやけに軽い。数日泊まる荷物にしては、心もとないくらいだ。着替えを詰める気力も、たぶん残っていなかったんだろう。
三上は「悪いな」と小さく言って、のろのろと乗り込む。動作のひとつひとつが、電池の切れかけた玩具みたいだった。シートに沈み込むと、それだけで小さく息を吐く。
「腹、減ってないか。なんか買ってから登るか」
「……いや、大丈夫。今は、いい」
食欲もないらしい。俺は無理に勧めず、エンジンをかけた。そのあたりの押し引きは、なんとなく、体で分かる。急かされるのが、いちばんこたえる時期だ。
◇◇◇
軽トラは県道を抜け、山道に入っていく。
曲がりくねった上り坂を、エンジンを唸らせて登る。窓の外を、濃い夏の緑が流れていった。蝉の声が幾重にも降ってきて、木々の隙間から漏れた光が、ちらちらとフロントガラスを滑っていく。
「なんもないとこだろ。コンビニまで、車で三十分だぞ」
「……いや。いいよ、これで」
三上は窓に頭を預けて、外をぼんやり眺めていた。返事も、口先だけで転がしたような、力のない声だ。
まあ、しゃべりたくないなら、しゃべらなくていい。俺はラジオもかけず、ただハンドルを切った。無言のドライブというやつも、山道じゃそう悪いものでもない。むしろこの道は、黙って窓の外を眺めているのが、いちばん贅沢な過ごし方だと思う。
俺は前を向いたまま、横目でその横顔をうかがった。青白い頬、うつろな目、丸まった背中。
昔の俺を、鏡で見てるみたいだ。
一年前、山に来たばかりの頃、洗面所の割れた鏡に映っていたのは、たしかにこんな顔だった。……あの頃の俺、こんなにひどい顔してたのか。よく生きてたな、と我ながら思う。
もっとも、その感慨も長くは続かない。今の俺は、朝は鳥の声で起きて、飯をうまいと感じて、夜はぐっすり眠っている。過ぎたことは、ずいぶん遠い。
標高が上がるにつれ、空気が変わっていく。窓を少し開けると、ひんやりした山の匂いが車内に流れ込んできた。土と、葉と、どこかの沢の湿った匂い。
その風を、三上が吸い込んだ。
最初は無意識だったんだろう。ただ、ふっと、こわばっていた肩から、力がひとつぶん抜けたのが分かった。窓を眺める目が、さっきより少しだけ、外の景色をちゃんと映している。
道が一段高いところに出ると、木の切れ間から、青い山並みが遠くまで折り重なって見えた。都会のビルの谷間じゃ、こんなに遠くまで視線が届くことなんて、まずない。視界が広がると、なぜだか胸のあたりまで、少し広くなる気がする。
「……でかいな、山」
三上が、ぽつりと言った。今日はじめて、外に向かって出てきた言葉だった。
俺は、それに気づかないふりをして、運転を続けた。急かすものは、この道には何もない。
◇◇◇
最後の急坂を登りきると、山の中腹に、俺の古民家が見えてくる。
苔むした瓦、少し歪んだ雨戸、庭の隅にちんまり建った直売所。一年かけて、俺なりに手を入れてきた我が家だ。相変わらずの立派なボロ家だが、住んでみると、これがなかなか居心地がいい。
その前の空き地に、俺は軽トラを停めた。助手席の三上は、フロントガラス越しに古民家を見上げて、何か言いたげに口を開き、けっきょく何も言わなかった。
肩に乗っていた苔玉みたいなやつが、ふわりと軒先へ飛んでいく。相変わらず、客が来ると落ち着かないらしい。
「着いたぞ。ここだ」
エンジンを切ると、蝉の声と、風が梢を撫でる音だけが残った。三上はしばらく、シートに座ったまま動かなかった。
やがて、のろのろとドアを開けて、外に出る。
そして、伸びをした。両腕を空へ突き上げて、背骨をぎしぎし鳴らすみたいに、大きく大きく。そのまま、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
夏の午後の光が、その白い顔に、まだらに落ちている。
「……空気、うまいな」
ぽつり、と。三上は、そう漏らした。




