第161話
夕方の畑は、いっとう気持ちがいい。
日中の暑さがゆるみ、山の影が段々畑をゆっくり呑み込んでいく。俺は最後の一列に水をやり終えて、腰を伸ばした。トマトの葉が西日にすけて、青くさい匂いが立ちのぼる。
軍手を外して、汗を拭う。今日のぶんの仕事は、これでヨシ。畑仕事の終わりに引く線は、前の職場のタスク管理よりよっぽど気持ちがいい。
と、尻ポケットでスマホが震えた。
泥のついた指で画面を確かめて、俺は少し目をみはった。表示された名前は「三上」。都会で働いていた頃の、同じチームの同僚だ。かれこれ一年、声も聞いていない。
「よう、久しぶり。どうした、珍しいな」
『……おう、結城。元気にしてたか』
その声を聞いた瞬間、胸のどこかがちくりとした。ぼそぼそと低くて、無理に張った明るさが、うわずって上滑りしている。
電話越しでも分かる。擦り切れている。
三上は、近況を装った雑談をぽつぽつと転がした。あのプロジェクトがどうの、あの上司が異動しただの。俺は縁側に腰かけて、相槌を打ちながら聞いていた。
話の中身は、正直あまり入ってこない。それより、言葉と言葉のあいだに落ちる、妙に長い沈黙のほうが気になった。
肩に、ふわりと軽いものが乗る。
「あるじ、だれか、くるの?」
苔玉みたいなコロが、まんまるの目で首をかしげていた。電話の相手に、鼻先を向けている。
俺は口の端だけで笑って、小さく首を振った。三上には、この声は届かない。俺にしか見えないし、聞こえない。まあ、いいから静かにしてろ、と目で伝える。
『……なあ、結城』
ふいに、三上の声のトーンが落ちた。作り物の明るさが、するりと剥がれる。
『正直さ。……もう、限界かもしれない』
残業続きで終電も逃す。詰められて、詰められて、夜は目が冴えて眠れない。朝が来るのが怖い——ぽつり、ぽつりと、こぼれ落ちるように言葉が並ぶ。
特別に誰が悪いという話でもないらしい。ただ、毎日が少しずつ重くなって、気づいたら、立っているのがやっとになっていた。三上は自分でも、どこで転んだのか分からずにいる様子だった。
俺は、黙って聞いていた。相槌さえ、下手に打たないほうがいい気がした。
痛いほど分かる、なんて言葉では足りない。だってそれは、一年前、この山に逃げてくる直前の、俺そのものだったからだ。同じ場所に、同じ顔で立っていた。
あの頃、胸に詰まっていた重たいものの手触りを、俺はまだ覚えている。
『ごめんな、こんな電話。お前、忙しいのに』
「忙しくないよ。さっきまで、トマトに水やってただけだ」
俺はわざと、間の抜けた声で言った。深くは踏み込まない。慰めの言葉を並べたって、あの頃の自分には、たぶん響かなかった。
だから、思いついたことを、そのまま口にする。
「なあ三上。よかったらさ、うちに来いよ」
『え……』
「山だけど、静かだぞ。飯はうまい。風呂もある。何もしなくていいから、ちょっと転がりに来い」
電話の向こうで、三上が言葉に詰まる気配がした。それから、小さく、ふっと息が漏れる。泣き笑いみたいな音だった。
『……山、か。お前、ほんとに山に住んでんだな』
「おう。立派なボロ家だけどな。歓迎するよ」
二、三、日をどうこうという話をして、電話は切れた。来るとも来ないとも、はっきりしないまま。それでいい。追い詰められている奴に、返事まで急かしちゃいけない。
◇◇◇
スマホを座卓に置いて、俺は縁側にごろりと寝転んだ。
夕焼けが、山の稜線をオレンジに焦がしている。ひぐらしが、どこか遠くで鳴きはじめた。
我ながら、おかしな誘いをしたものだ。都会で消耗した男に、電波も怪しいこんな山奥を勧めるなんて。
「山を勧めるなんて、俺も物好きだな」
苦笑いが漏れる。普通なら、温泉旅行でも勧めるところだろう。
……いや、でも。
もしあの時、俺に「うちに来いよ」と言ってくれる人が、一人でもいたら。飯を食わせて、寝かせてくれる場所が、どこかにあったら。俺はきっと、もっと早く楽になれた。あんなにギリギリまで、擦り切れずに済んだのかもしれない。
肩の上で、コロがもぞもぞと動いた。
「あのひと、つかれてるの?」
「ああ。……昔の俺と、そっくりだよ」
俺はコロの頭を、指先でそっと撫でた。ふわふわして、あたたかい。
一年前の俺に、こんなふうに声をかけてくれる人は、いなかった。誰も悪くない。みんな、自分のことで手一杯だったんだ。俺だって、そうだった。
でも——と、俺は西日の空を見上げる。
「だったら、俺がやればいいか」
ぽつり、と口からこぼれた。
いなかったなら、俺がやればいい。難しい話じゃない。飯を炊いて、風呂を沸かして、ただ、いていいと言ってやる。それだけのことだ。
大した力になれるわけじゃない。俺にできるのは、せいぜい米を炊くことくらいだ。それでも、あの頃の俺には、その「せいぜい」が喉から手が出るほど欲しかった。
コロが、まんまるの目を細めて、嬉しそうに肩の上で弾んだ。
さて、と俺は起き上がる。もし本当に来るなら、客間を片付けておかなきゃな。埃をかぶった一間を思い浮かべて、俺は久しぶりに、ちょっとだけ張り切っている自分に気づいた。




