第160話
日が落ちると、山の空は驚くほど深くなる。
初夏の夜風は、昼の熱をどこかへ運び去って、ひんやりと澄んでいた。俺は縁側に腰かけて、湯上がりの体を夜気に晒しながら、頭の上に広がる星を見上げていた。
街にいた頃は、空を見上げる余裕なんて一度もなかった。それが今は、こうして毎晩、飽きもせず星を数えている。
風呂を落とした桶がまだ湯気を立てていて、その白いゆらぎの向こうで、スイがぷかりと浮かんでいる。
「あるじ、今夜のお湯も、最高の仕上がりでしたわ」
得意げにそう言って、スイは水面みたいに光を弾いた。俺は「ああ、いい湯だった」と笑って返す。この掛け合いも、いつのまにか毎晩の決まりごとになっていた。
肩の上ではコロがうとうとと揺れ、かまどのそばではエンが火の残り火にじゃれつき、作業台の上ではモクが腕を組んで夜風に目を細めている。四匹そろって、それぞれの定位置。もう見慣れた、いつもの夜の光景だ。
そういえば、と俺はふと思った。この山に来て、ちょうど一年が過ぎた。
春に軽トラでこの山を登ってきて、夏を越え、秋を越え、冬を越えて、また初夏が巡ってきた。四季がぐるりとひとめぐりした。
同じ夜風でも、去年の今ごろとは、まるで違う匂いがする。
目を閉じると、一年分の景色が、順ぐりに浮かんでくる。
最初は、ただの荒れ山だった。苔むした瓦、歪んだ雨戸、立派なのは軒下の蜘蛛の巣ばかり。掃除だけで一日が終わって、へとへとになって畳に倒れ込んだ、あの初日。
それでも、かまどで炊いた飯がやたらとうまくて、間抜けに一人でうなっていたのを覚えている。あれが、この暮らしの、いちばん最初の一口だった。
夏には、初めて自分の畑で夏野菜が採れた。慣れない手つきで植えたトマトや茄子が、太陽を浴びて赤く、紫に膨らんでいくのを、毎朝わくわくしながら見に行った。もぎたてを丸かじりして、甘さに驚いた。
その夏の盛りに、俺は精霊たちが見えるようになった。
森野さんに「見ようとすれば、見えますよ」と言われて、半信半疑で目の力を抜いてみたら、ある日ふっと、家じゅうの小さな光に、輪郭が生まれた。土間の隅の赤いとかげ、水がめのぷるぷる、梁の上の渋い顔。
最初はさすがに腰を抜かしかけたが、こいつらがあんまり嬉しそうにそわそわするものだから、気づけば普通に話しかけていた。
「あの頃はまだ、お前らの名前も知らなかったんだよな」
つぶやくと、肩のコロが「いまは、まいにち よんでくれるの」と眠そうに揺れた。
人の縁も、この一年で驚くほど広がった。
製材所の森野さんに始まって、鍛冶の鉄本さん、石屋の鞍馬さん、夜カフェの宵さん。一人が一人を紹介してくれて、腕のいい変わり者たちの輪が、気づけばこんなに大きくなっていた。
田舎は縁が薄いものだとばかり思っていたのに、来てみたら、まるで逆だった。みんな、こんな山奥まで、面白がって通ってくる。
鉄本さんが打ってくれた薪ストーブで、初めての冬を越したのも忘れられない。
窓の外は一面の雪。しんと静まった白い世界で、昼はストーブの前でぬくぬくと暖をとり、夜は五右衛門風呂で芯まで温まる。それだけで、あの冬は十分すぎるほど贅沢だった。
その冬のあいだに、鞍馬さんが「儂の見立てた石で、露天風呂を作れ」と偉そうにやって来て、雪が解けた今年の早春、俺は半信半疑でそれを組み上げた。
初めて露天風呂に浸かった夜のことは、たぶん一生忘れない。芽吹きはじめた山の匂いと、まだ冷たい夜気、芯まで温まった体。あんなに贅沢な湯が自分の山にあるなんて、一年前は夢にも思わなかった。
春には、宵さんに教わって、ワインを仕込んだ。
秋に自分で仕込んでおいた味噌の甕を開けたら、塩辛かっただけの豆が、飴色のなめらかな味噌に育っていた。時間ってやつは、放っておくだけで、こんなに旨いものを作ってくれるらしい。
急がなくていい暮らしの味を、俺はこの一年で、たっぷり覚えた。
そして——縁側から庭の隅に目をやると、月明かりに、あの直売所の棚がぼんやり浮かんでいる。
傾いた古い棚を引っ張り出して、余り野菜を並べただけの、粗末なあれ。それが今では、なんだか色んなものの真ん中になっている。
通ってくる人外たちが立ち寄って、精霊たちが賑わって、そして顔も知らない律儀な常連さんが、毎日きれいに品を持っていっては、見慣れないコインや石を置いていく。
俺がDIYで組んだだけの棚一つに、こんなに縁が集まってくるんだから、世の中というのは分からないものだ。
目を開けて、あらためて夜の山を見渡す。
精霊の光が、あちこちでやわらかく瞬いている。畑は青々と茂り、納屋には熟成の甕が並び、風呂はまだ湯気を残している。どこを見ても、一年前には無かったものばかりだ。
荒れ山が、四季をひとめぐりする間に、まるで別の場所に変わっていた。
いや——変わったのは、山だけじゃない。
「一年前は、ただ疲れて、独りになりたくて、逃げてきただけだったのにな」
ぽつりと、俺はそうこぼした。
あの頃の俺は、何もかもに擦り切れて、誰にも会いたくなくて、山の奥へ奥へと逃げ込んだ。独りになれれば、それでいいと思っていた。
それが今は、毎晩こうして相棒たちと星を眺めて、昼には誰かが訪ねてくるのを、心のどこかで待っている。逃げてきたはずの場所が、いつのまにか、いちばん賑やかな居場所になっていた。
我ながら、おかしな話だ。でも、悪くない。むしろ、こういうのが、いいんだろうな。
◇◇◇
同じ夜、遠い異世界の辺境で。
ネル村の空にも、同じように星が瞬いていた。
昼の労働を終えた行商のガロは、村外れの辻へと足を運んでいた。手には、村の女たちが編んだ、ささやかな供物の花。
立て直したばかりの、真新しい石の祠。その前に膝をつき、ガロはそっと手を合わせた。
「祠の主さま。今年も、村は無事に季節を越えられました」
痩せた土地は肥え、魔獣に怯えていた夜はもう遠い。子どもらは畑の間を駆け回り、老人たちは日向で笑っている。すべては、この祠に恵みを授けてくださる、姿の見えない主さまのおかげだった。
ガロは、祠の奥の暗がりを、いとおしそうに見つめた。
「ずっと、こうしてお祈りしてまいりましたが……いつか叶うなら」
その先を、ガロは声を落として、けれど確かに口にした。
「いつか、直に お会いして……この村を救ってくださったお礼を、この手で申し上げたいのです」
祠の向こうにいるという主さまが、どんなお方なのか、ガロは知らない。その主さまが、遠い山の縁側で、のんきに星を眺めていることも。
両側の願いは、互いを知らぬまま、同じ夜の底で、静かに呼応していた。
◇◇◇
夜が更けて、俺は湯呑みに白湯を注ぎ、もう一度縁側に腰を落ち着けた。
指を折って、この一年に世話になった顔を、一つずつ数えてみる。森野さん、鉄本さん、鞍馬さん、宵さん。集落の人たち。そして、見えない常連さん。
「みんな親切で、いい一年だったなあ。ほんと、助かった」
しみじみと、そうつぶやく。
右も左も分からない都会もんに、みんな呆れもせず、色んなことを教えてくれた。おかげで俺は、味噌の仕込み方も、雪の越し方も、精霊との付き合い方まで覚えてしまった。恵まれた一年だったと、心から思う。
自分が誰かの支えになっているだなんて、そんな大それたことは、これっぽっちも思っていない。俺はただ、たくさんの親切に助けられて、なんとかやってこられた。それだけのことだ。
白湯をすすると、夜気で冷えた体に、じんわりと温もりが染みていく。
肩のコロが、寝ぼけたまま「あるじ、らいねんは なにを つくるの?」と、小さくつぶやいた。
来年か、と俺は星空を見上げた。
畑をもう少し広げてもいい。保存食の種類を増やしてもいい。まだ手をつけていない、山の奥のほうも、そろそろ覗いてみたい。逃げてきたはずの暮らしが、いつのまにか、前へ進みたくなるものに変わっていた。
「二年目は、どんな年になるかな」
夜風がひとつ、山を撫でて通り過ぎる。星が、静かに瞬いている。
俺はふと、月明かりに浮かぶ直売所の棚を、もう一度眺めた。あの棚の向こうで、今日も律儀にコインを置いていった、顔も知らない常連さんたち。
「……できたら、あの棚の向こうの人たちとも、もっと近くなれたらいいな」
どんな人たちなんだろう。遠い国の人だろうか。会えたら、まず、ちゃんと礼を言いたい。
願いを胸にしまって、俺は白湯を飲み干した。相棒たちの光に囲まれて、初夏の夜は、どこまでも穏やかに更けていく。
一年、なんとかやれた。二年目も、きっと、悪くない年になる。
根拠なんてないけれど、なぜだか、そんな気がした。
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あとがき
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