第159話
日が傾いて、直売所の板壁が飴色に染まりはじめた。
夕方の見回りついでに、俺は棚の前で足を止めた。今日の品はあらかた減っていて、残っているのは形の悪い茄子が二本だけだ。かわりに料金箱の底には、見慣れないコインが一枚、ちょこんと沈んでいる。
つまみ上げて、夕日にかざしてみる。鈍い金色に、見たこともない紋様。何度もらっても、これがどこの硬貨なのか、俺にはさっぱり分からない。
この一年、ずっとこうだった。
朝、野菜を並べておくと、夕方にはきれいに消えていて、かわりにこういう古めかしいコインや、妙にきれいな石が置かれている。最初は正直、面食らった。こんな山奥に、律儀に通ってくる物好きがいるなんて、思いもしなかったからだ。
それが、気づけば一年。雨の日も、雪の日も、途切れたことがない。
「……よくもまあ、飽きずに通ってくれるもんだ」
箱の縁に腰を下ろして、俺はコインを指先で転がした。顔も、名前も、住んでるところも知らない。それでも、この一枚を見るたびに、向こう側に誰かがいるんだな、と思う。
どんな人たちなんだろうな、と考えてみる。
こんな辺鄙な棚をわざわざ頼りにするくらいだ。よっぽど遠くに住んでいるのかもしれない。それとも、古いコインを集めるのが趣味の、変わり者の一族だろうか。想像するぶんには、いくらでも膨らむ。
遠い国の人たちが、うちの茄子やらきゅうりやらを、食卓に並べているところを思い描いてみる。言葉も通じない、暮らしぶりも見当もつかない相手だ。
それでも、俺の作ったものを、誰かがどこかでうまそうに食っている。そう思うと、なんとも言えず、こそばゆい気持ちになった。
昔なら、こんな想像はしなかったな、と思う。都会でモニターに向かっていた頃は、自分の書いたものがどこの誰に届いているのか、考える余裕なんて、これっぽっちもなかった。顔の見えない相手のことを、こんなふうに気にかけるようになったのは、ここへ来てからだ。
ただ、ひとつだけ、確かなことがある。
この人たちは、律儀だ。取った分は、きっちり返してくる。どれだけ野菜を持っていっても、料金箱が空っぽだったことは、一度もない。会ったこともない相手なのに、その几帳面さだけは、もう一年ぶんも知っている。
なんだか、それがおかしくて、俺はひとりで笑った。
足元で、ふわりと明かりが揺れた。いつのまにか、精霊たちが料金箱のまわりに寄ってきている。コロが箱の縁でまるくなり、スイが底のあたりでぷかりと光り、エンとモクが少し離れて、静かにこちらを見上げていた。
「あるじ、その ぴかぴか、また とどいたの?」
「ああ。相変わらず、律儀な常連さんだよ」
コロにそう返して、俺はコインを箱の中へ戻した。もらったものを勝手に使う気にはなれなくて、こういうのは棚の奥の小箱に、記念みたいにためてある。ずいぶん貯まったが、まあ、それでいい。
夕風が、棚の品書きをかたかたと鳴らした。
妙なものだ、と思う。声を聞いたわけでも、顔を合わせたわけでもない。それなのに、この一年、毎日のように向こうの気配だけは感じている。
俺が並べて、向こうが持っていく。ただそれだけの、言葉のいらないやりとりが、いつのまにか暮らしにすっかり馴染んでいた。
考えてみれば、この棚が、俺とその人たちを繋ぐ、たった一つの窓口だ。ここに何を置くかで、向こうの誰かの食卓が、少しだけ変わるのかもしれない。そう思うと、明日は何を並べようか、なんてことまで、つい張り切って考えてしまう。
次は、色つやのいいトマトを多めに置いてやろうか。あれは去年も、やけに評判がよかった気がする。気のせいかもしれないが、置いた翌朝は、いつもより丁寧に対価が入っている、ような気がするのだ。
会えるものなら、一度、会ってみたい。
礼を言いたいのだ。うちの野菜を選んでくれて、ちゃんと律儀に返してくれて、一年、通い続けてくれて、ありがとうと。たったそれだけのことを、面と向かって伝えたい。
そう思ってから、俺は自分の考えのくすぐったさに、また笑ってしまった。
「顔も知らないのに、なんだか、遠い友達みたいだ」
誰もいない棚の前で、俺は独り言をこぼしていた。友達、というには、あんまりにも遠すぎる。互いのことなんて、何ひとつ知らないのに。
それでも、そう呼びたくなる何かが、この一枚のコインには宿っている気がした。
スイが、料金箱の底で、ちいさく身を寄せた。まるで、その向こうの気配を、いっしょに感じ取っているみたいに。
夕日が、山の稜線にゆっくりと沈んでいく。棚の影が長く伸びて、料金箱の小さな金色を、そっと包んだ。
「……いつか、この棚の向こうと、もっと近くなれたらな」
どこにいるのかも分からない相手に向けて、俺は静かに、そう願った。
こちら側から手を伸ばしたところで、届く先なんて、あるのかも分からない。それでも、伸ばしてみたくなる。一年ぶんの縁は、俺の中で、それくらいには温かく育っていた。
棚の板を軽く叩いて、俺は家へと踵を返す。足元で、精霊たちの明かりが、名残惜しそうにひとつ、またひとつと、あとを追ってきた。




