第157話
夏の日ざしが、ネル村の畑をあまねく照らしていた。
街道の終わりに、へばりつくような小さな寒村。かつては痩せた土に、細い作物がまばらに立つばかりだった村が、いまは違う。
畑いっぱいに、青々とした葉が茂っている。行商のガロは、荷を背負い直しながら、そのまぶしさに目を細めた。
豆の蔓が支柱をよじ登り、根菜の葉が風にそよぎ、実の重みで枝がしなっている。ほんの数年前には、考えられなかった光景だ。
村外れの井戸端では、女たちが笑い声をあげながら、洗い物の手を動かしている。その足もとを、子どもらが歓声をあげて駆け抜けていった。
痩せて青白かった子らの頬に、いまはしっかりと血の色が差している。走りまわるだけの力が、その小さな体に満ちていた。
「……ほんとうに、変わったなあ」
ガロは、誰にともなく、そうつぶやいた。
飢えの冬は、もう遠い昔のことのようだった。森から降りてくる魔獣も、村を囲う神具の柵が、いつのまにか寄せつけなくなっている。
病に臥せっていた老人は、あの赤い霊薬を口にして起き上がり、いまでは孫の相手をして日を過ごしている。この夏、誰ひとり欠けることなく、村は揃っていた。
ガロの行商も、ずいぶんと楽になった。村に売れるものが増え、外から買えるものも増えた。痩せた村には、かつて商いなど、まともに成り立たなかったのに。
いまでは、隣の村の者までが、ネル村の実りを分けてほしいと訪ねてくる。あの、いちばん貧しかった村が、である。
すべては、祠の恵みのおかげだった。
村外れの辻には、立派な社が建っている。
冬のあいだに村じゅうで建て直した、村の誇りだ。真新しい柱は、いまも夏の光を受けて、白々と輝いている。
ガロは、いつものように、その前へ足を運んだ。
祠には、今日も供物が捧げられていた。金貨に、上等な毛皮に、ほのかな光をたたえた魔石。村の者が、持てるかぎりの上等なものを、感謝のしるしに置いていくのだ。
ガロは膝をつき、深く頭を垂れた。
この祠の奥に、姿の見えぬ〝主さま〟がおられる。恵みを授け、村を飢えから救い、魔獣から守ってくださった、ありがたいお方が。
けれど、村の誰ひとりとして、そのお姿を見た者はいない。声を聞いた者もいない。
ただ、供物を捧げれば、翌朝には瑞々しい野菜や、見たこともない道具が、祠に現れている。それだけが、主さまがそこにおられる、たしかな証だった。
このごろ、村の者はよく、社の前で語り合うようになっていた。
主さまに、どうすればこの感謝をお伝えできるのだろう、と。供物を捧げるだけでは、どうにも足りない気がしてならないのだ。
長老は、若い者や子らに、繰り返し言い聞かせている。この村が、どれほどの恵みに生かされてきたか、決して忘れるな、と。そして、いつの日か、この恩に、きちんと報いたいものだ、と。
恵みをいただくばかりの村では、もういたくない。立ち直ったいまだからこそ、村じゅうが、そう願うようになっていた。
顔を上げ、ガロは真新しい社を見つめた。
この一年、幾度もここへ通い、幾度も手を合わせてきた。そのたびに、胸の奥で、ひとつの願いが、静かに育っていた。
「祠の主さま」
声が、夏の風にやわらかくとけていく。
村はもう、飢えない。子らは笑い、畑は実る。こうして恵みを数え上げられるほどに、村はすっかり立ち直った。
だからこそ、いま、ガロは思うのだ。恵みをいただくばかりでは、あまりに申し訳ないと。
「いつか……いつか、直に お会いして」
言葉を、ひとつずつ、選ぶように紡いでいく。
「この村を救ってくださったお礼を、じかに、申し上げたいのです」
叶わぬ願いだと、分かってはいる。祠の向こうがどこにあるのかも、誰ひとり知らないのだから。
それでも、ガロは願わずにいられなかった。姿の見えぬ恩人に、いつか、頭を下げてお礼を言いたい。ただ、それだけを。
背後では、子らの笑い声が、夏の広場に満ちている。ガロは、いつまでも社に手を合わせていた。
◇◇◇
その、はるか彼方で拝まれている当の主さまは。
山の中腹の直売所の前で、俺は品を並べ直しながら、料金箱をそっと覗いていた。
今日も、見慣れぬ古いコインが一枚、入っている。相変わらず、律儀な常連さんだ。
顔も知らない。どんな人が、こんな辺鄙な棚までわざわざ通ってくれているのか、見当もつかない。それでも、もう一年以上、途切れることなく足を運んでくれている。
俺は料金箱を閉じ、棚の向こうの、遠い誰かに思いを馳せた。
「見えない常連さんと、いつか話せたらなあ」
誰にともなく、そうつぶやく。
「ずっと世話になってるんだ。……お礼くらい、言いたいよ」
山ひとつ向こうで、その〝常連さん〟が、社に手を合わせて、まったく同じことを願っていることなど、俺は何ひとつ知らない。
ただ、夏の空を見上げて、のんきにそう思っているだけだった。




