第156話
軽トラを麓の集落に停めて、俺は買い出しの荷を助手席から下ろした。
初夏の陽が、瓦屋根の連なる小さな集落を、明るく照らしている。田んぼには水が張られて、空をそっくり映し込んでいた。一年前も、たしかこんな景色だったはずだ。
でも、この道を歩く俺の心持ちは、あの頃とはまるで違っていた。
軒先に腰かけていた小柄なばあさんが、俺を見つけて片手を上げる。俺も自然と手を上げ返した。
「結城さん、山はどうだね。今年は暑くなるってねえ」
「そうみたいですね。畑の水やり、朝晩やっても追いつかなくて」
そんな他愛のない天気の話が、口をついてすらすら出てくる。一年前は、こうはいかなかった。
思い返せば、この集落に初めて顔を出したときの俺は、ひどくぎこちなかった。よそから来た三十路手前の独り者。それも山ひとつ買って住みつくという、正体の知れない都会もん。
最初の挨拶回りなんて、今思い出しても冷や汗が出る。菓子折りを抱えて一軒ずつ回りながら、玄関先で何をどう名乗ればいいのか分からず、俺はやたらと頭ばかり下げていた。
言葉に詰まって、天気の話すら続かない。相手も探るような目でこちらを見ていて、間がもたずに「では、また」と逃げるように次の家へ向かう。その繰り返しだった。
道で人とすれ違うたび、俺はただ黙って会釈するだけ。声をかけていいものか、それとも余計なお世話か。そんな距離の測り方が、都会育ちの俺にはさっぱり分からなかった。
それがどうだ、と、今の自分がおかしくなる。
「結城さん、これ持ってきな。うちのが採れすぎて困っとるんよ」
八百屋の前を通りかかると、店先のおかみさんが茄子を袋いっぱいに押しつけてくる。俺は苦笑いで受け取った。
「いつもすみません。じゃあ、うちの南瓜、今度お裾分けしますね」
物のやり取りが、いつのまにか当たり前になっている。俺の直売所の余りを持って下りれば、かわりに漬物や採れたての野菜が返ってくる。損も得もない、ただの気持ちの行き来だ。
こういうのを「近所付き合い」と呼ぶのだと、この歳になって、俺はようやく体で覚えた。都会のマンションでは、隣に誰が住んでいるかも知らなかった。
◇◇◇
郵便局の前では、農協帰りの爺さん連中がたむろしていた。俺の顔を見るなり、一人が声をかけてくる。
「おう結城さん、あんたの山の裏手、猪が出たって話だぞ。気ィつけな」
「まじですか。柵、もう一回見回っときます」
獣の噂は、この土地で暮らす者にとっては何より大事な情報だ。どこそこに熊が出た、鹿が畑を荒らした——そういう話を、みんな自分のことのように教え合う。
少し行った先の橋のたもとでは、田植えを終えた若い衆とすれ違った。
「結城さん、山の水、うまいって評判だな。今度分けてくれよ」
「いいですよ。そのかわり、田植えの手伝い、来年こそ呼んでください」
軽口の応酬が、ぽんぽんと弾む。名前を覚えられて、冗談を返せる相手がいる。ただそれだけのことが、じんわりありがたい。
一年前の俺なら、こんな輪に混ぜてもらえなかっただろう。今は当たり前に立ち話に加わって、猪よけの電気柵の張り方まで教わっている。
◇◇◇
立ち話を切り上げて軽トラに戻ろうとしたとき、縁側で茶をすすっていた古老が、俺をゆっくりと呼び止めた。
この集落でいちばんの年寄りで、みんなから一目置かれている爺さんだ。俺は帽子を取って、その前に立った。
古老はしわ深い目を細めて、しみじみと言った。
「あんた、来た頃はいかにも都会もんって顔しとったが……すっかり山の人になったな」
その一言が、妙に胸に沁みた。
都会もんの顔。たしかに、あの頃の俺は、そういう顔をしていたのだろう。何かに追い立てられて、いつも肩に力の入った、余裕のない顔を。
言われて初めて、自分が変わったことを知る。鏡を見ても分からないことを、他人の目は、ちゃんと映してくれるものらしい。
俺は照れくさくなって、つい頭をかいた。
「そうですかね。ここ、居心地よくて、つい」
つい、居ついてしまった。逃げてきたはずの山に、腰を据えて根を張ってしまった。
古老は「そうか、そうか」と、皺くちゃの顔でうなずいて、また茶をすすった。それ以上は何も言わない。でも、そのうなずきが、なんだか俺を丸ごと受け入れてくれているようで、じんわりあたたかかった。
軽トラのエンジンをかけて、山道を登りながら、俺はまだその言葉を反芻していた。
山の人になった、か。
思えば田舎の縁というのは、都会のそれとはまるで速さが違う。名刺を一枚渡して即席で結ぶものではなく、季節を何度もまたぎながら、少しずつ編まれていくものらしい。
毎朝の会釈、野菜のやり取り、猪の噂話。ひとつひとつは取るに足らない。けれど、それが幾層にも積み重なって、気づけば俺は、この土地の網の目にそっと組み込まれていた。
根は、見えないところで伸びる。急かしても仕方がない。ただ黙って水をやり、時間に任せておけば、いつのまにか土をしっかり掴んでいる。畑の作物も、人の縁も、たぶん同じなのだ。
田舎は縁が薄い、なんて思い込んでいた自分を、少し笑いたくなる。薄いどころか、こんなに濃い。ただ、根づくのに、じっくり時間がかかるだけなのだ。
精霊のこと、通ってくる変わり者の知り合いたち、見えない常連さん——この一年で結ばれた縁は、どれも不思議で、賑やかだった。
でも、こういう、ごく普通の人たちとの、ごく普通の縁も、いつのまにか俺の暮らしにしっかり根を張っていた。それが、なんだかいちばん、じんわりと嬉しかった。




