第155話
麓へ下る道を、俺はひとりで歩いていた。
いや、正確にはひとりじゃない。肩の上ではコロがモフモフと揺れ、頭のてっぺんではエンが尻尾の火をちろちろさせ、少し先の枝ではモクが腕を組み、木漏れ日の落ちる水たまりの縁でスイがぷかりと涼んでいる。買い出しのついでの、なんてことのない山下りだ。
その足が、やけに軽いことに、ふと気づいた。
勾配のきついところも、石の張り出したところも、体が勝手に段を選んで踏んでいく。どこに足を置けば滑らないか、次のひと足でどう体を運べば楽か——考えるより先に、膝と足首がもう答えを出している。
湿った土のにおいと、羊歯の青くさい匂いが、下るほどに濃くなる。梢の隙間からこぼれる日差しが、道の上でちらちらと踊っていた。木の根の段差も、ぬかるみを避ける半歩も、いちいち目で確かめなくていい。歩きながら、頭の隅で今日の買い物のことなんか考えていられるくらいには、この道が体になじんでいた。
「……いつのまに、こんなに慣れたんだ」
立ち止まって、自分の足元を見下ろした。履き潰したトレッキングシューズの爪先が、迷いなく坂の下を向いている。
一年前は、まるで違った。
この山を買った日、俺は同じ道を、地図を握りしめて登った。一歩ごとに足がすくんで、本当にこんな所でやっていけるのか、引き返すなら今じゃないか、そんなことばかり考えていた。木の根ひとつ踏み越えるのにも、いちいち身構えていた気がする。
三度も引き返した、と思う。三十路手前の男が、地図の上で右往左往して、無人の山道でひとり立ちすくんでいたのだから、我ながら情けない話だ。それでも当時は、その一歩が本当に怖かった。
道だけじゃない。あの頃の俺は、何をするにも迷っていた。
都会で、心も体もすり減らして、逃げるみたいにこの山に来た。かまどに火を入れるのも、鍬を握るのも、初めてだらけで、正解が分からなくて、いつも怯えていた。手を動かすたびに、これでいいのか、間違ってないか、と誰かの顔色をうかがう癖が、体の芯にこびりついていた。
「不安だらけだったよな、あの頃は。何が正解か、ずっと分からなくてさ」
声に出してみると、他人事みたいに聞こえた。
その分からなさに、当時の俺はずいぶん参っていたはずだ。なのに今、同じ道を、鼻歌でも出そうな足取りで下っている。日々の献立も、畑の段取りも、直売所の品を並べる順番も、迷う場面がめっきり減った。体が、暮らしが、勝手に段を選ぶようになっていた。
思えば、都会にいた頃は逆だった。何を選んでも、これで合っているのか確信が持てなくて、決めたそばから別の道が気になって、いつも半歩、足が止まっていた。決めきれないまま、疲れだけが溜まっていく。あの立ちどまってばかりの感じが、今の足の裏には、もうどこにも見当たらない。
軽い足取りが伝わるのか、肩のコロが機嫌よく弾んだ。
「あるじ、きょうは あしが かるいね。うれしいなの」
「だな。なんでか、やたら軽い」
エンが頭の上で、ぱちりと火の粉を散らす。
「あるじの あしどり、かるいと オレも たのしいぜ!」
モクが枝から枝へ、風を切って先回りしていく。スイが水たまりを離れて、俺の歩幅に合わせるみたいに宙を漂った。四匹とも、俺の足並みに乗って、どことなく浮かれている。独りきりで登った一年前とは、道連れの数からして違う。あのときの心細さを思えば、ずいぶんと賑やかな下り坂になったものだ。
道の途中、いつも通る大岩のところで、俺はもう一度足を止めた。
去年、ここで一度、本気で引き返そうとした場所だ。あのときは岩の影がやけに大きく見えて、この先に何が待っているのか、怖くてたまらなかった。今はただの、見慣れた道しるべにしか見えない。
結局、正解なんてものは、最後まで教えてもらえなかった。誰も採点してくれないし、模範解答も配られない。それでも、こうして俺は迷わず歩いている。
「正解なんて、無かったのかもな」
岩をひとつ、手のひらでぽんと叩いた。ひんやりと乾いた、ただの石の感触だった。
「ただ、毎日を積んでたら、いつのまにか迷わなくなってた。……それで、いいんだろうな」
答えを探すのをやめて、目の前のひと足に足を置く。それを一年、ただ繰り返しただけだ。かまどに火を入れて、畑を耕して、飯を食って眠って。うまくいかない日も、やり直した日も、ぜんぶひっくるめて、朝が来ればまた同じことをやった。そのひと足ずつが、気づけば、迷わない足取りをこしらえていた。
大した心がけがあったわけじゃない。ただ、逃げ出さずに次の日を踏んだ。それだけのことが、一年ぶん積もれば、こんなにも体を軽くするらしい。
肩のコロがぐっと伸び上がって、坂の下を指すみたいに揺れる。
「あるじ、はやく いこ。したの まちが まってるよぉ」
「はいはい。慌てるなって」
俺は笑って、前を向いた。木々のあいだから、麓の集落の屋根がちらちらと覗いている。
迷いのない一歩を、また一歩、踏み出す。その軽さの下に、一年ぶんの重みが、ちゃんと沈んでいる気がした。急がず、けれど止まらず、俺は坂を下っていった。




