第154話
醤油と塩を切らしかけていたので、久しぶりに麓まで買い出しに下りることにした。
背負い籠を担いで、勝手口から山道へ出る。初夏の朝の光が枝葉の隙間から降ってきて、足元にちらちらと網目を落としている。空気はまだ少し冷たくて、吸い込むと肺の奥まで洗われるようだった。
この道を歩くのも、もう何十回目だろう。何も考えなくても、足が勝手に一番歩きやすい線を選んでいく。
「さて、ついでに何か旨いもんでも見繕って帰るかな」
鼻歌まじりに、俺は下り坂へ足を向けた。
肩の上では、コロが苔玉の体をゆらゆら揺らしている。頭のてっぺんにはエンが尻尾の火をちろちろさせて座り、少し前を、モクが葉っぱの羽で滑るように飛んでいく。スイは俺の首元で、水面みたいにぷかぷか浮いていた。
「あるじ、きょうは どこまで いくのぉ?」
「麓の店までだよ。ちょっと長いぞ。落っこちるなよ、コロ」
「おっこちないもん。ぎゅってしてるの」
コロが小さな手で俺の襟をつかむのが、くすぐったい。賑やかなものだ。買い出しに行くだけで、この所帯である。
◇◇◇
道が大きく右へ折れる、栗の木のところで、俺はふと足を止めた。
見覚えのある、というより、忘れようがない曲がり角だった。ここで一度、道を間違えたのだ。ずっと昔――といっても、たった一年前の話だが。
あの日、俺は不動産屋にもらった手書きの略図を握りしめて、この山道を登っていた。全財産をはたいて買った山へ、初めて一人で向かう朝だった。
軽トラを麓に停め、ここから先は歩きだと言われて、俺は途方に暮れたのを覚えている。舗装が切れ、砂利がやがて土に変わり、道はどんどん心細くなっていった。
携帯の電波は途中で切れ、頼りは皺だらけの紙きれ一枚。分かれ道のたびに立ち止まっては、これで合っているのかと何度も引き返した。
仕事なら、要件を整理して、手順を組んで、着実に潰していけばよかった。だがこの道には、仕様書もなければ、正解を教えてくれる先輩もいない。ただ、自分の足で進むしかなかった。
この栗の木の角では、道が枝分かれして見えて、うっかり獣道のほうへ入りかけた。引き返した回数は、たしか三度。登りきる前に、心のほうが二度くらい折れかけていた。
「本当に、こんな所でやっていけるのか」
あの時の俺は、一歩ごとに、そう自分に問うていた。木が鬱蒼と茂って空が狭く、人の気配がまるでない。都会の雑踏から逃げ出したくせに、いざ静かになると、その静けさが怖かった。
足がすくんで、なかなか前に出なかった。買った山が遠いのではなく、踏み出すのが怖かったんだと思う。
それが――今は、どうだ。
同じ栗の木、同じ枝分かれ、同じ勾配。何ひとつ変わっていない。変わったのは、歩いている俺のほうだった。
迷いもしなければ、足も止まらない。どこで木の根が張り出しているか、雨の後にどこがぬかるむか、全部この足が覚えている。目をつむっても下りられそうだ。
あの頃は怖かった木の茂りも、今は日除けのありがたい屋根にしか見えない。空が狭いと嘆いた梢の重なりは、鳥のねぐらで、風の通り道だ。同じ景色が、まるきり別の意味を帯びて目に映る。
「へえ……こうして立ち止まってみると、けっこう違うもんだな」
我ながら、しみじみしてしまった。人は一年で、こんなにも道の見え方が変わるものらしい。
あの頃、俺の隣には誰もいなかった。心細さを分け合う相手もなく、ただ紙きれ一枚を握って、独りきりで登っていた。
それが今は、肩にコロ、頭にエン、首元にスイ、先導にモク。総勢一名だったはずの山登りが、いつのまにか五名の大所帯になっている。
「あるじ、どうして とまったのぉ?」
コロが不思議そうに、俺の頬を覗き込んでくる。
「いや、昔のこと思い出しててな。この角で、俺、道に迷ったんだよ。この山に来た、一番最初の日に」
「あるじが、まいごに?」
「そう。地図を見ても、さっぱり分からなくてさ。情けない話だろ」
言いながら、俺は笑ってしまった。今なら考えられない。この道で迷うほうが、よっぽど難しい。
「フン。今のお前さんからは、想像もつかんな」
モクが枝の上で腕を組んで、いつもの渋い顔でそう言った。
「だろ? 自分でもそう思うよ」
◇◇◇
俺はもう一度、来た道のほうを振り返った。
木々の間を縫って、俺の山の中腹――修繕した古民家の屋根が、緑の向こうにちらりと見えている。あそこには、耕した畑があり、DIYで組んだ直売所があり、湯を張れば冷めにくい風呂まである。
一年前、この道を怯えながら登った男が、まさかあの家に帰っていくとは。あの時の紙きれを握った俺に、この光景を見せてやりたいくらいだ。
都会で擦り切れて、逃げるみたいに山を買って。あの頃は正直、半分やけっぱちだった。うまくいく見込みなんて、これっぽっちもなかった。
周りには反対されもした。三十路手前で貯金と退職金を全部つぎ込むなんて、正気の沙汰じゃないと。俺自身、電車の中で契約書を眺めながら、これは無謀だと何度も思った。それでも、あの街にもう一日でも留まるほうが、俺には無謀に思えたのだ。
「あの時の俺、まさかこんな暮らしになるなんて、思ってもなかっただろうな」
ぽつりと、声に出してみた。
精霊を肩に乗せて、鼻歌まじりに山道を下る三十路の男。一年前の俺に説明したところで、頭でも打ったのかと本気で心配されるに決まっている。
でも、これが今の俺の、当たり前の毎日なのだった。
風が梢を撫でて、緑の匂いをひとしきり運んでいく。エンが頭の上で、気持ちよさそうに火の尻尾を伸ばした。
「あるじ、なにボーッとしてんだ? 早く行こーぜ! オレ、麓の川、見てみてえんだ!」
「ああ、悪い悪い。今行くよ」
急かされて、俺はまた歩き出した。
一歩、また一歩。踏み出す足に、もう迷いはない。あの日、あんなに重かった一歩が、今はこんなにも軽い。
そういえば、と思う。あの日の一歩――逃げるように踏み出した、あの情けない最初の一歩を、俺はこれまで、あまり誇らしくは思っていなかった。所詮は逃げだと、心のどこかで少し恥じてもいた。
だけど、こうして一年ぶんの道のりを振り返ってみると、少し違って見えてくる。
「……よく、思い切って山を買ったよ、俺」
自然と、そんな言葉がこぼれた。
あの一歩がなければ、この道も、この家も、この賑やかな相棒たちも、何ひとつ手に入らなかった。畑の土の匂いも、かまどの飯の甘さも、湯気の向こうの精霊たちの顔も、全部、あの怖くて仕方なかった一歩から始まっている。
「あの一歩が、全部の始まりだったんだな」
逃げてきた一歩だと、ずっと思っていた。でも本当は、あれは俺が自分の足で選んだ、最初の一歩だったのかもしれない。
初めて、あの一歩を、そう肯定できた気がした。
「あるじ、なんだか うれしそうなの」
コロが俺の頬に、そっと苔玉の体を寄せてくる。
「そうか? まあ……うん。ちょっとな」
照れくさくて、俺は頬をかいた。
「その青い水、麓に着いたら、川で少し遊んでもいいですわよ、あるじ。せっかくの陽気ですもの」
首元のスイが、得意げにそう言って、ぷるんと揺れた。
「お前が遊びたいだけだろ、それ」
軽口を叩くと、精霊たちがいっせいに笑うように瞬いた。
賑やかな道連れを乗せて、俺は迷いのない足取りで、麓への道をゆっくり下っていく。
同じ道だ。同じ木々、同じ勾配、同じ栗の木の角。何も変わっていない。
変わったのは、俺のほうだった。それで、じゅうぶんだった。




