第153話
初夏の朝、直売所の脇にしゃがんで、俺は空になった料金箱の中を覗いていた。
今日も見慣れないコインが一枚、ちょこんと沈んでいる。鈍い金色で、縁に妙な紋様の刻まれた、あのアンティークだ。もう何十枚もらったか、数える気も起きない。
箱をもとの棚に戻して、ふと手が止まった。もぎたてのトマトやきゅうり、その向こうの段々畑、そのまた向こうに建つ古民家。並べた品ごしにぐるりと見渡すうちに、なんだか可笑しな気分になってくる。
「……よく考えたら、ここ、色んなものが集まってくるよなあ」
声に出してみて、余計にそう思った。この一年、俺はろくに山を下りていない。買い出しに麓へ行くくらいで、あとはずっとこの中腹にこもりきりだ。なのに、山のほうへは、人も物も、次から次へと転がり込んできたのだ。
まず、この直売所の常連さんたち。顔も見たことがないのに、律儀に古いコインや、夜にほんのり光るきれいな石を置いていく。遠い国の変わり者か、よほど物好きな収集家か。正体はさっぱり分からないが、とにかく一年、一度も途切れずに通ってくれている。空になった棚を見るたび、律儀なもんだと感心する。
それから、山まで足を運んでくる面々だ。製材所の森野さん、鍛冶の鉄本さん、石屋の鞍馬さん、夜カフェの宵さん。一人が一人を連れてきて、気づけば賑やかな輪になっていた。みんな腕のいい、少し変わった人たちで、「また来る」と言っては本当にまた来る。田舎は縁が薄いと思い込んでいたのに、蓋を開けたら逆だったのだから、世話がない。
軒下や畑では、相棒たちが今日も元気に飛び回っている。土の匂いを嗅いで転がるコロ、水場でぷかぷか揺れるスイ、かまどのそばで暖をとるエン、作業台で渋い顔をして腕を組むモク。去年の今ごろは、物が動くとか、光がよぎるとか、そんな気配だけの連中だった。それが今では、姿も声もある、暮らしのど真ん中の同居人である。
そして、季節ごとの実り。春の山菜、夏の採れたて野菜、秋の木の実、冬に仕込む保存食。俺が種を蒔いて手を入れれば、あとは土と時間と、こいつらが、勝手にどんどん恵みを運んでくる。放っておいても、山はいつも何かしら実らせている。
……ずいぶんな賑わいだ。
思い返せば、俺がこの山に来た理由は、まったく逆だった。人に揉まれ、電話とメールに追われ、いいかげん誰とも関わりたくなくて、静かに独りになりたくて、逃げるようにここを買ったのだ。あの頃は、山ひとつ買えば、世界のぜんぶから距離が取れると本気で思っていた。
「独りになりたくて逃げてきたのに、ずいぶん賑やかな場所になったなあ、うち」
つい笑ってしまった。人払いのつもりで山ごと買ったのに、蓋を開けたら、たぶん前の暮らしより人も物も多い。世の中、思ったようにはいかないものである。
もっとも、あの頃の賑やかさと、今の賑やかさは、まるで別物だった。街の人混みは、すれ違うだけで疲れる種類のものだった。ここに集まってくるのは、来れば飯がうまくなって、火のそばがあたたかくなる、そういう賑やかさだ。同じ「賑やか」でも、これなら、いくら増えても構わない。
肩のあたりが、もぞりと動いた。いつのまにかコロがよじ登ってきて、まんまるの目で棚のほうを見上げている。
「あるじ、ここは みんなが あつまる、いいばしょなの」
のんびりした声で、コロがそう言った。いつもの他愛ないひと言が、今朝はなぜだか、すとんと胸に落ちてきた。
「そうかもな。……お前がそう言うなら、そうなんだろうな」
いい場所、か。自分ではただ荒れ山を耕して、飯を作って寝ていただけなのに、そう言ってもらえるのは、悪くない気分だった。
もう一度、料金箱に目を落とす。この小さな棚を挟んだ向こうに、俺の知らない誰かがいる。顔も、名前も、どこの誰かも分からない。それでも一年、ずっと通い続けてくれている相手だ。
どんな人たちなんだろう。急に、そのことが妙に気にかかった。
野菜と引き換えに、わざわざこんな山奥まで足を運ぶくらいだ。きっと、暮らしを大事にする人たちなんだと思う。うちの不格好なきゅうりを、どんな顔で持って帰るのか。あのコインは、その人にとって、どのくらいの重さのものなのか。想像しはじめると、会ったこともない相手のことが、なんだか近しく思えてくる。
「顔も知らない、異世界の……じゃなくて、遠くの常連さんたちとも、いつか話せたらな」
言いかけて、自分の言い間違いに苦笑する。異世界も何も、たぶん遠い町の物好きだろうに。
「お礼くらい、言いたいよ。……こんなに世話になっといて、名前も知らないんじゃ、さすがに義理が悪いからな」
棚の向こうへ、そっと呟く。もちろん、返事はない。相手がどこにいるのかも、そもそも会える相手なのかも、俺には見当もつかないのだ。
それでも、口に出してみると、案外すっきりした。いつか叶うかどうかは分からないが、願っておくくらいはただだろう。
肩のコロが、賛成なのか、ふるりと小さく身を揺らす。ただ初夏の風が、並べた野菜の葉をかさりと鳴らして、山のほうへ通り抜けていった。




