第151話
朝、鳥の声で目を覚まして土間に降りると、俺の手はもう考えるより先に動いている。
かまどの前にしゃがみ、昨日の灰を掻き出し、細い薪を下に、太いのを上にと組んで、丸めた新聞紙に火を移す。去年の今頃は、火ひとつ熾すのに煙にむせて半泣きだったのに、今は炎の育つ道筋が、なんとなく指先で分かる。
どこに空気の通り道を作れば火が回るか。薪と薪の、ちょうどいい隙間の見当がつく。
「よし、素直に育て」
狙ったとおりに炎が薪の隙間を舐め、火力がすっと安定した。傍らでエンが尻尾の火を揺らし、得意げに胸を張る。
「あるじ、いい火だろ。オレとあるじの、二人がかりだからな!」
いや、大半はお前の手柄だろうな。そう思いつつ、湯気の立ちはじめた鍋を眺める。
この、朝いちばんに火と向き合う時間が、俺はすっかり好きになっていた。急かす者は誰もいない。ただ、炎が育つのを、しゃがんで見ていればいい。
◇◇◇
飯を済ませて、畑に出る。
朝露を踏んで畝のあいだを歩けば、どの列に何が実っているか、見なくても足が覚えている。茄子のへたを指で探り、きゅうりの棘を避けて摘む。トマトは触ってやわい実は残し、色を見て、いちばん熟れた一つから採っていく。
肩の上でコロがまんまるの目を細めた。
「あるじ、ことしの おやさい、ぷりぷりなの。ちゃんと そだったよぉ」
一年、この土と付き合ってきた手が、勝手に良し悪しを選り分けていく。去年は苗を一本植えるのにも図鑑と首っ引きで、実がなったなったと大騒ぎしていたのが、我ながら、少しは板についてきたらしい。
露を含んだ野菜は、朝の光を弾いてつやつやしている。それを籠に山盛りにして、直売所へ運ぶ。
棚を固く絞った布巾で拭いて、大きさをそろえて並べ、品書きの札を挟む。曲がったきゅうりは手前に、形のいいのは奥に。この一連の動きも、もう何百回とやってきた。指の運びに、迷いというものがない。
並べ終えて棚を眺めると、料金箱には今朝も、見慣れない古いコインが一枚、ちょこんと入っていた。相変わらず律儀な常連さんだ。ありがたく頂戴して、俺は蓋を閉める。
◇◇◇
夕方になれば、風呂を沸かす。
焚き口に薪をくべ、桶に水を張り、手を浸して湯加減を見る。この火の当て方だと、だいたいこのくらいで沸く、という頃合いも、もう体で覚えた。風呂桶の縁では、スイが半透明の身をぷかりと浮かべて、湯にそっと溶けていく。
「あるじ、今日のお湯も、いい仕上がりになりそうですわ」
沸くのを待つあいだ、作業台の上ではモクが腕を組んで、削りかけの端材を見下ろしていた。
「フン……この木も、乾いてきたな。悪くない」
俺は薪の爆ぜる音を聞きながら、ふと手を止めた。
朝の火、畑の野菜、直売所の棚、夕方の湯——どれも、今日はじめてやったことなんて、ひとつもない。全部、一年、飽きるほど繰り返してきた動作ばかりだ。
なのに、その一つひとつに、なんとも言えない手触りがある。
「派手なことは、何もないんだよな」
湯気の向こうで、薪がぱちりと鳴った。
「でも、その何気ないのが、いつのまにか、ぜんぶ厚くなってる」
一日は、去年とたいして変わらない。変わったのは、その一日を積んできた、俺の手のほうだ。同じ動作でも、下に一年ぶんの日々が敷かれていると、こんなにも重たく、あたたかくなるものらしい。
都会にいた頃は、毎日が使い捨てだった。予定を消化して、終電に揺られて、寝て、また始発。どれだけ働いても、下に何も残っていかない感じがして、それがいちばん、俺をすり減らしていた気がする。
ここでの一日は、逆だ。何も派手なことは起きないくせに、やった分だけ、ちゃんと下に積もっていく。手の慣れも、土の肥えも、精霊たちとの気安さも。
◇◇◇
湯が沸くころ、日が傾いた。
俺は縁側に腰を下ろして、山の端に落ちていく夕日を眺める。いつのまにか、四匹もそれぞれの場所に収まっていた。
肩にコロ、風呂の縁にスイ、かまどのそばにエン、作業台の上でモク。誰が決めたわけでもない定位置に、当たり前みたいに落ち着いている。その光景さえ、もう一年ぶん、俺の目に馴染んでいた。
橙色の光が、畑と、棚と、湯気の立つ風呂を、順に撫でていく。
「毎日、ほんとに何でもないんだよな」
膝の上のコロが、こてんと寄りかかってきた。
「……でも、毎日、満ち足りてる」
思い返しても、今日は特別なことなんて何ひとつなかった。それなのに、胸のあたりが、じんわりとあたたかい。
「こういうのを、幸せって言うのかもな」
言ってから、少し照れて頭をかいた。柄にもない。
夕日はゆっくりと山の稜線へ沈んでいく。明日もまた、俺は火を熾して、野菜を摘んで、棚を整えて、風呂を沸かすのだろう。特筆すべきことなんて、たぶん、ひとつも起きない。それでも、何でもない一日が、また一枚、この暮らしの上に静かに積み重なっていく。
その一枚一枚の厚みを、俺はようやく、指先で感じられるようになったらしい。
肩と膝の相棒たちの重みを確かめながら、俺は暮れていく空をもう少し眺めていた。
それでいい。というより、それが、いいんだろうな。




