第150話
朝の涼しいうちにと、俺は蔵の戸を引いた。ひんやりとした空気が、湿った土とかすかな酸の匂いを連れて流れ出てくる。ここは、季節をまたいで待たせておくものの部屋だ。
棚の一番下、去年の秋に仕込んだ味噌の甕がある。木の蓋を外し、押し蓋の重石をどけて、上に張った紙を剥がす。指先が、少し緊張していた。
仕込んだ日のことは、よく覚えている。大豆を煮て、潰して、麹と塩を混ぜて、団子にして叩きつけるように詰めた。あのときは、まだ薄い黄土色の、いかにも「これから」という顔をしていた。
「……お、すごいな、これ」
半年あまり待った甕の中身は、深い飴色に変わっていた。表面はしっとりと艶を帯び、へりのあたりはもう赤味を帯びた褐色に育っている。蓋を開けた瞬間に立ちのぼる香りが、鼻の奥をふわりと満たした。
角のない、丸い匂いだ。塩気の尖りが引っ込んで、その代わりに、こうばしいような、甘いような、複雑な奥行きが顔を出している。仕込んだ日の、あのつんとした若さは、どこにもない。
俺は木べらの先で少しだけすくって、恐る恐る舌にのせた。
じわりと、旨味が広がる。
塩辛いはずなのに、後から追いかけてくるのは甘みと、コクだ。半年、暗がりで静かに変わり続けた分が、そのまま濃さになって舌に残る。思わず、唸り声が漏れた。
「これ、俺が作ったのか……いや、作ったのは半分だけだな」
自分でやったことといえば、材料を混ぜて詰めて、蓋をして、あとは重石を乗せて放っておいただけだ。掻き混ぜもせず、様子を見に来るのもたまにだった。残りの半分は、時間と、目に見えない菌たちの仕事である。
急かさなかったから、うまくなった。仕事の段取りだったら、俺は「なるべく早く」で組んできた人間だ。工程を並べて、待ち時間を潰して、少しでも前倒しにする。それが染みついていた。
なのに、この甕は真逆だった。何もせず、ただ待つほど良くなる。急がないことそのものが、味の一部になっている。
◇◇◇
隣の棚には、春に漬けたワインの瓶が並んでいる。宵さんに教わった見よう見まねの一本だ。
仕込んだばかりの頃は、正直、これでいいのか自信がなかった。若くて、渋くて、口の中がきゅっと締まるような、荒っぽい味だった。飲めなくはないが、うまいかと言われると口ごもる、そんな酒。
それを、日の当たらない棚の隅で、静かに寝かせておいた。数ヶ月ぶりに栓を抜いて、小さなグラスに少しだけ注いでみる。
色が、落ち着いていた。仕込んだ頃の毒々しいほどの赤紫が、今は深く澄んだルビー色に沈んでいる。ひと口ふくむと、あの尖った渋みが、すっかり丸くなっていた。
「まろやかになってる……角が、取れたんだな」
舌の上をゆっくり転がるような、柔らかい味だ。荒れていた若い酒が、時間に撫でられて、こんなに穏やかになる。同じ瓶、同じ中身のはずなのに、まるで別物だった。
待った時間が、そのまま味になってるな——瓶を陽にかざしながら、しみじみそう思った。
◇◇◇
ふと、水場のほうから、ぷるりと涼しい気配が寄ってきた。棚の縁に、半透明のスイがちょこんとのっている。得意げに、少し胸を張るように光を反射させて。
「あるじ、この甕の子たち、わたくしが ずっと見ていましたのよ」
スイの声は、水面が鳴るように澄んでいる。
「いい水で、いい子に育ちましたわ」
言われて、思い当たった。味噌を仕込むときも、ワインを漬けるときも、使ったのはこの山の湧き水だ。仕込みに使い、道具を洗い、甕のまわりの湿り気まで、この子はきっと気にかけてくれていたんだろう。
「そうか。じゃあ、これはスイの手柄でもあるんだな。……ありがとうな」
礼を言うと、スイは満足そうに、ぷるんとひと揺れした。まるで、当然でしょう、とでも言いたげに。俺は、うまい味噌を分けてやろうと心に決める。この子の好物ではないだろうが、気持ちの問題だ。
それにしても、と俺は甕に向き直る。
仕込んだのは去年の秋、漬けたのは今年の春。過ぎた季節が、そっくりそのまま、旨味とまろやかさに変わっていた。俺はただ、待っていただけなのに。
もう一度、木べらで味噌をひとすくいして、舌にのせる。深い、深い旨味が、じんわりと広がっていく。
「暮らしって……続けるほど、良くなるんだな」
誰に言うでもなく、蔵の薄暗がりで、俺はそう呟いていた。
街にいた頃は、何もかも早いほど偉かった。遅れることは、そのまま負けみたいなものだった。それが今は、急がずに寝かせておくほど、こうして深く育つものが手元にある。
「急がなくていいものが、こんなにあるなんて」
半年前の俺は、この味を知らなかった。一年前の俺なんて、味噌を仕込むことすら思いつかなかった。
待つのは、ただの遠回りだと思っていた。けれど、この甕の中で起きていたのは、遠回りなんかじゃない。時間にしか作れない、確かな味だ。
俺は蓋を戻し、また重石をそっと乗せた。まだ食べきらないぶんは、もう少し寝かせておこう。急ぐ理由なんて、ここにはひとつもないのだから。




