第147話
昨日は敷地の設備をぐるりと数えて回ったが、今日は縁側で茶をすすりながら、別の棚卸しをしてみることにした。
物じゃなく、自分の中身のほうだ。この一年で、俺は何ができるようになったのか。
考えはじめて、すぐにおかしくなった。指を折って数えていったら、両手ではまるで足りなかったからだ。
まずはDIY。障子の張り替えから始まって、雨戸の修繕、棚づくり、しまいには石を組んで風呂まで拵えた。図面を睨んで、材を刻んで、寸法どおりに組む。あの工程を、俺はいつのまにか苦にしなくなっている。
次にかまど飯。火の熾し方も、薪のくべ方も、炊きあがりを湯気の匂いで見極めるコツも、身体が覚えた。土鍋を火にかけて、放っておいても失敗しなくなったのは、我ながらちょっとしたものだと思う。
「……いや、待てよ。まだあるぞ」
茶を置いて、俺は縁側に指を並べていく。
漬物。糠床を毎日かき回して、浅漬けも古漬けも、季節の野菜で自在に仕込めるようになった。干し野菜も、燻製も、去年の秋に初めて挑んで、今では立派な保存食棚が土間の奥に並んでいる。
極めつけは、味噌だ。大豆を煮て、潰して、麹と塩を混ぜて、甕に仕込んで、あとはひたすら待つ。発酵なんてものを、まさか自分の手でやる日が来るとは思わなかった。
思い返せば、最初はどれも散々だった。炊いた米は芯が残り、初めての燻製は真っ黒に燻しすぎて食えたものじゃなかった。糠床にいたっては、一度うっかり放置して、盛大にすねさせたこともある。
それでも、失敗するたびに何がまずかったのかを考えて、次で直す。その繰り返しで、少しずつ勘所が身についていった。バグを潰していくのと、案外似ている。
それだけじゃない。獣が出れば柵の点検をして、罠を仕掛け直す手つきも慣れた。足跡ひとつで、どんな獣がいつ通ったか、見当がつくようにもなった。
薪割りは、斧を振り下ろす角度で割れ方が変わるのが面白くて、いつのまにか腰が入るようになった。冬には雪かきで、屋根の雪をどう落とせば楽か、力の抜きどころも覚えた。どれも、去年の俺には何ひとつできなかったことだ。
そして、精霊たちとの暮らし。これはもう、できるとか、できないとかいう話ですらない気がする。
最初は気配だけだった。物が動く、光がよぎる、それだけの相手だった。それが今では、名前を呼べば返事が来て、飯の火加減を手伝ってくれる相棒になっている。彼らと過ごす作法も、この一年でずいぶん自然に身についた。
かまどのそばで、赤いサラマンダーが尻尾の火をゆらしている。俺の視線に気づいて、エンがぴょんと肩まで駆け上がってきた。
「あるじ、火のあつかい、一年前より ぜんぜん うまくなったぜ!」
太鼓判を押すみたいに、胸をそらして言う。
褒められて悪い気はしないが、それにしても、火の精霊にお墨付きをもらう日が来るとはな。
「そりゃ、先生がいいからだろ」
軽口を返すと、エンは満更でもなさそうに尻尾をぱちりと爆ぜさせた。
思えば、一年前の俺にできたことといえば、コンビニ弁当をレンジで温めるくらいのものだった。それも、加熱時間を几帳面に守るだけの話で、料理でもなんでもない。
街にいた頃の俺は、画面の中の文字を組み替えることしか知らなかった。手のひらは白くて、爪はきれいで、刃物も土も、ろくに触ったことがなかった。
それが今や、味噌を仕込み、風呂を組み、獣と知恵比べをしている。同じ人間とは思えない変わりようだ。
妙なのは、これがぜんぶ、昔取った杵柄と地続きだってことだった。
説明書を隅から隅まで読み解いて、手順を最適化して、無駄をそぎ落とす。SEの頃、俺がいちばん得意だったやつだ。あの理屈っぽいギーク気質が、まさか漬物や薪割りに活きるとは、当時は想像もしていなかった。
もっとも、活きたところで、大したことをやっているつもりはない。どれもこれも、本を読めば載っている、昔の人なら誰でも知っていたことばかりだ。俺はただ、それをなぞっているに過ぎない。
でも、なぞるだけでも、手は確かに動くようになった。頭で分かるのと、身体でできるのとは、まるで別物だ。それを一年かけて、少しずつ縮めてきたんだと思う。
「……なあエン。俺、けっこう色々できるようになったよな」
つい、そんな確認を口にしてしまう。
エンは当然だと言わんばかりに、ふんぞり返って火の粉を散らした。
湯呑みの底に残った茶を飲み干して、俺は空を仰いだ。初夏の光が、庭の若葉を透かして、ちらちらと揺れている。
元SEが、味噌なんか仕込んでるんだからな。
「……都会にいたら、一生知らなかったことばっかりだ」
失ったものも、確かにあった。安定した給料も、便利さも、深夜まで灯る街の明かりも。
だけど、こうして手のひらを眺めてみると、得たもののほうが、ずっと多い気がする。少しばかりカサついて、あちこちに小さな傷のある手だ。けれど、この手は、去年より確かに色々なものを作れる。
六十点で上等、と思ってきた暮らしが、いつのまにか、思っていたよりずっと厚くなっていた。




