第145話
森野さんの軽トラが、山道の向こうにゆっくり消えていった。
見送った俺は、縁側に腰を下ろして、ぬるくなった茶をすする。今日は先日分けてもらった板の礼にと、わざわざ寄ってくれたのだ。「いい山ですね」と、来るたびに森野さんは目を細める。あの穏やかな物言いと、どこか浮世離れした気配は、一年経った今でも変わらない。
思えば、この人との縁が、全部の始まりだった。
山に来て間もない頃、製材所で板を分けてもらったのが最初だ。ぼそりと「見ようとすれば、見えますよ」と言われたときは、何のことやらさっぱりだった。……今なら、少しは分かる気がする。
肩の上で、コロがのんびり揺れた。
「あるじ、もりのさん、また きてくれて うれしいなの」
ああ、と俺は頷く。四匹とも、来客にはすっかり慣れたものだ。以前は人が来るとそわそわ隠れていたのに、今は定位置でくつろいだまま、平気で客を眺めている。
そういえば、森野さんの年を、俺は未だに知らない。二十代にも見えるし、この山よりずっと長く生きてきたようにも見える。……まあ、詮索するのも野暮か。
その森野さんが、次に引き合わせてくれたのが、鉄本さんだった。
薪ストーブが欲しいと相談したら、「腕のいいのがいる」と紹介されたのが、あの鍛冶屋だ。初めて工房に顔を出したとき、ずんぐりした体つきの鉄本さんは、真っ赤に灼けた鉄を素手同然で扱っていて、正直ぎょっとした。
「ハッ、素人にしちゃ、道具の使い方を分かってるじゃねえか」
ぶっきらぼうに笑って、極上のストーブを一台、譲ってくれた。短気で豪快で、それでいて一度認めた相手にはとことん面倒見がいい。あの冬、あのストーブにどれだけ助けられたことか。
そして、その鉄本さんが、「石なら鞍馬に聞け」と教えてくれた。
露天風呂を作りたいと思ったときだ。石材屋の鞍馬さんは、山の湧き水をひと目見るなり、「ふむ、悪くない」と鷹揚に構えた。風の匂いでも嗅ぐみたいに天を仰ぐ癖があって、物言いはやたらと芝居がかっている。
「素人にしては見どころがある。特別だぞ」
そう胸を張る姿に、俺はいつも笑ってしまう。あの人の見立てた石のおかげで、うちの露天風呂は今や自慢の一つだ。
最後が、宵さんだった。鞍馬さんが「夜に旨いものを出す店がある」と言うので、麓のカフェを訪ねたのが縁だ。
いつ行っても薄暗い店の奥で、青白いほど肌の白い宵さんが、気だるげにグラスを傾けている。発酵だの熟成だのの話をさせたら、この人の右に出る者はいない。
「発酵はね、待つことよ。あなたの暮らしと同じ」
含みのある言い方で、ワインやチーズやら、発酵と熟成のコツを、いくつも教わった。おかげで今年は、蔵の甕がずいぶん賑やかだ。待つほどに旨くなる、というあの言葉の意味も、少しずつ舌で分かってきた気がする。
……こうして辿ってみると、不思議なものだ。
森野さんが鉄本さんを、鉄本さんが鞍馬さんを、鞍馬さんが宵さんを。一人が一人を引き合わせて、気づけば腕のいい"変わり者"たちの輪が、こんなに広がっていた。
みんな、どこか浮世離れしている。それでも、悪い人は一人もいない。むしろ、こんなに親切な連中には、都会にいた頃だって、そうそう出会えなかった気がする。
湯呑みを置いて、俺はしみじみ思う。
「田舎は縁が薄いと思ってたのに、逆だったな。いい出会いばっかりだった」
面白いのは、みんな帰り際に、決まって同じことを言うことだ。
「また来ますね」「また寄らせろよ」「じきに顔を出す」——そうして、本当にまた来る。
用があるわけでもないのに、ふらりと山を登ってきて、茶を飲んで、風呂に浸かって、精霊たちに構われて帰っていく。
しかも、たまに時間が重なると、そのまま縁側で顔を突き合わせることになる。鉄本さんが豪快に笑い、鞍馬さんが鷹揚に石の講釈をたれ、森野さんが穏やかに相槌を打ち、宵さんが涼しい顔で肴をつまむ。俺が引き合わせたわけでもないのに、いつのまにか、みんな知り合いだ。腕のいい変わり者ってのは、案外どこかで繋がっているものなのかもしれない。
エンなんかは、客が来ると大はしゃぎだ。
「あるじ、また だれか くるのか!? オレ、かまど あっためとくぜ!」
尻尾の火をゆらゆらさせて、今から張り切っている。スイは客の分の湯を気にかけ、モクは腕組みしたまま満足げに座を見渡し、コロは誰彼構わず肩に乗りにいく。四匹とも、この賑わいがすっかり気に入っているらしい。
縁側から、手入れの済んだ庭と、その先の直売所を眺める。
独りになりたくて、逃げるように買った山だった。それが今では、人が集まり、精霊が笑い、賑やかな声の絶えない場所になっている。
「うちの山、なんだか人の集まる場所になったなあ」
当たり前のようにそう呟いてから、なんだか可笑しくなった。
……いや、独りが欲しかったはずなんだけどな。まあ、細かいことはいい。悪くないどころか、こういうのを、案外望んでいた気さえする。
茶をもう一口すすると、初夏の風が、庭の若葉をさらさらと鳴らしていった。




