第144話
朝飯の片づけを終えて、縁側に腰を下ろす。夏の光が土間まで届いて、板の間がほんのり温かい。
その温かさの中に、四つの気配がいた。俺の肩でうとうと揺れる苔玉のコロ、水がめの縁でぷかりと浮くスイ、かまどの残り火をつつくエン、作業台の上で腕組みするモク。もう、それが当たり前の朝の風景になっている。
ふと、去年の今ごろを思い出した。
この家に来たばかりのころ、こいつらは「気配」でしかなかった。棚の道具がひとりでに手元に来る。梁の上を、火のかけらみたいな光がすっとよぎる。夜になると、柱の陰で名もない光がそわそわ瞬いていた。
置いたはずの湯呑みが、朝には半歩ずれている。閉めた戸が、風もないのにことりと鳴る。畳を踏むと、足の裏に土のようなひんやりした感触がよぎった。どれも、気のせいだと言えば済む、その程度の小さなしるしだった。
俺はそれを、古家特有の隙間風とか、目の疲れとか、そんなふうに片づけていた。まさか、そこに小さな連中がいて、こっちの暮らしをのぞき込んでいたなんて、思いもしなかった。
「あのころは、お前らのこと、幽霊か何かだと思ってたんだよな」
そう言うと、肩のコロがむにゃりと身じろぎした。
「あるじ、ゆうれいじゃ ないよぉ。ずっと、そばに いたの」
わかってる。今なら、わかる。
姿が見えるようになったのは、去年の盛夏だった。森野さんに教わった見方のコツで、ある日ふっと、世界の焦点が合った。
まぶたの裏が熱くなって、ぼやけた輪郭がするりと像を結ぶ。目の前で、苔玉が笑っていた。水滴が跳ね、火の粒が尾を引き、葉っぱが羽ばたく。ああ、こいつらか、と声にならない声がこぼれた。それからは、もう毎日この賑やかさだ。
独りになりたくて、山を買った。人の声にくたびれて、誰にも急かされない場所を探して、逃げるようにここへ来た。それがどうだ。今や、朝から晩まで小さな相棒が四匹、俺のまわりでああだこうだ言っている。
逃げてきた先が、いつのまにか大家族だ。我ながら、計画性のかけらもない。
水がめのスイが、つう、と縁を滑ってきて、得意げに胸を張った。
「あるじ、わたくしたち、一年で ずいぶん立派になりましたわね?」
言われて、俺は四匹をあらためて眺めた。
気のせいだろうか。出会ったころより、どいつも色艶がいい気がする。コロの苔はふかふかと深い緑で、スイは光をよく弾いてぷるぷると澄んでいる。エンの尻尾の火は前より力強くゆらめき、モクの葉っぱの羽も、つやつやとよく茂っていた。
畑が肥え、保存食の甕が増え、風呂に湯が張られ、直売所に品が並ぶ。暮らしが厚くなった分だけ、こいつらもどこか元気になった――そんな気が、なんとなくする。
思えば、四匹はそれぞれの持ち場に馴染んでいた。
コロは畑がお気に入りで、朝は畝の間にいる。俺が土を掘り返すと、ころころ転がって苔の頬を土にすりつける。「ここ、ふかふかだよぉ」と笑うから、鍬を振る手に力が入る。
スイは水場の主だ。風呂に湯を張る夕方になると、先回りして湯船の縁で待っている。「今日はちょうど良い湯かげんですわ」と澄まし顔だが、湯気の中でくるくる回っているのを俺は知っていた。
エンはかまどが城だ。飯を炊くとなれば、聞かずとも火のそばに陣取り、ぱちぱち跳ねる。「まかせろ、オレの火だぜ!」と胸を張る姿は、もう立派なかまど番だ。
モクは作業台から動かない。俺が棚をこしらえていると、腕を組んで手元を見ている。釘の打ち所がずれると「フン、そこじゃない」と低くこぼす。そのくせ仕上がると木肌をそっと撫でるのだから、可愛げがある。
かまどのエンが、火のそばから飛び跳ねて自慢した。
「オレ、火加減の腕あげたぜ! 去年より、ずーっと うまく焚けるんだ!」
たしかに、このごろのかまどは驚くほど素直だ。俺の腕が上がったのか、こいつの腕が上がったのか。まあ、たぶん両方だろう。
作業台のモクが、ふん、と鼻を鳴らして腕を組み直す。
「フン、まあ、悪くない育ちだ」
照れ隠しなのが、もう手に取るようにわかる。付き合いが一年になると、この渋面の裏側まで読めてしまうから不思議だ。
「立派になったのは、お前らの手柄か? それとも、俺が餌付けした成果かね」
軽口を叩くと、四匹がいっせいに、抗議するみたいにわしゃわしゃ揺れた。焼きマシュマロだの、青いつぶつぶの入浴剤だの、こいつらの好物を並べてやった夜を思い出して、俺はひとりで笑ってしまう。
◇◇◇
昼下がり、俺は縁側に寝転んで、天井の梁をぼんやり見上げていた。
あの梁の上を、一年前は火のかけらがよぎっていた。今はエンが堂々とその上に陣取って、昼寝をしている。同じ場所、同じ光。なのに、俺の見ている世界は、まるで違うものになった。
見えなかったころの暮らしを、思い出そうとしてみる。……不思議と、うまく像を結ばない。
静かで、独りで、たしかにそれはそれで悪くなかったはずなのに。今の俺には、その静けさがどんな手ざわりだったか、もう遠い。
「見えなかった頃が、もう思い出せないな」
俺は梁に向かって、独り言みたいに呟いた。
肩に、いつのまにかコロが戻ってきて、ちょこんと乗る。スイが水面で光り、エンが梁で寝返りを打ち、モクが作業台で目を細める。四匹ぶんの気配が、体のまわりにやわらかく満ちていた。
たった一年。それなのに、ずっと昔からこうだった気さえする。
「……ずっと、こいつらといた気がするよ」
言ってから、我ながら気の早いことだと苦笑した。付き合いはまだ一年、これから何年続くのかもわからない。
わからないけれど、まあ、いい。
夏の光の中で、俺は目を閉じた。賑やかで、あたたかい。この山に来て一番の拾い物は、たぶん、この四匹だ。




