第143話
朝の水やりを終えて、俺は段々畑の縁にしゃがみ込んだ。初夏の日差しがまだやわらかいうちに、ひととおり畝を見て回るのが、いつのまにか日課になっている。
青々とした葉が、風を受けてさわさわと揺れる。トマトは背丈ほどに伸びて実を膨らませ、ナスは艶やかな紫を垂らし、キュウリの蔓が支柱をぐんぐん登っていく。
葉物も根菜も、去年より種類が増えた。畝の一本一本に、それぞれの緑が詰まっている。
風が抜けるたびに、青くさい葉の匂いと、湿った土の匂いが混じって鼻をくすぐる。どこかで名も知らない鳥が鳴いて、遠くの木立で返事がある。
この光景を、俺はしばらく飽きずに眺めた。
朝いちばんに畑を一周する、ただそれだけのことが、一日の中でいちばん好きな時間になっている。派手なことは何もない。それでも、緑が昨日より少し伸びているのを見つけるだけで、なんだか得をした気分になる。
思えば、去年の今ごろは、こんなじゃなかった。
初めてこの段々畑と向き合った日のことを、ふと思い出す。腰の高さまで茂った雑草をむしり、石のように固まった土に鍬を打ち込んで、掘り出した石を一つずつ除けていった。
半日で手のひらはマメだらけ、腰は悲鳴をあげて、それでも起こせたのはほんのひと畝ぶんだった。
慣れない手つきで、苗をおそるおそる植えて。根を傷つけないかと、そればかり気にしていた。
「最初は、苗を一本植えるだけで必死だったな」
口に出してみると、我ながらずいぶん遠くまで来た気がする。
あの頃は、一本植えるのに手順書がほしいくらいだった。今は、目をつぶってでも畝が立てられる。体が段取りを覚えてしまったのだ。
水やりの匙加減も、去年は分からなかった。やりすぎて根を腐らせかけ、やらなすぎて葉をしおれさせ、そのたびに慌てていた。
今は、葉の色と土の乾き具合を見れば、だいたい足りているかどうかが分かる。マニュアルを読み込むのは昔から得意だったが、この畑には読むマニュアルがない。体で覚えるしかなかった分、身についたものは案外しぶとい。
しゃがんだまま、指で土をすくってみる。
黒くて、しっとりして、ほろほろと崩れる。握ればやわらかくまとまり、開けばさらりとほどける。去年の、あの乾いて痩せた土とは、手触りからしてまるで別物だった。
野菜のヘタを埋め、落ち葉を漉き込み、季節ごとに手を入れてきた。一年かけて、土そのものが肥えたのだ。
思えば、これも地味な積み重ねの結果だった。台所で出たヘタや皮を、捨てずに畑の隅へ埋める。秋には落ち葉をかき集めて寝かせ、春に漉き込む。一回ぶんの手間はごくわずかで、成果はその日には見えない。
それでも、こつこつ回し続けていれば、一年後にはちゃんと積み上がっている。この地味さは、嫌いじゃなかった。
種を蒔けば、面白いくらい素直に芽を出す。土がいいと、こんなに違うものか。
——と、畝の上を、両手ほどのモフモフした苔玉が、ころんと転がってきた。土と植物の精霊、コロだ。
まんまるな目が、自慢げにきらきらしている。
「あるじ、ことしの つちは さいこうなの。ぷりぷりに そだつよぉ」
コロは畝の上をもう一往復して、うれしそうに身をよじった。
こいつと二人三脚で、というのも変だが、まあ、二人三脚でやってきた一年だ。俺が耕し、コロが根っこに頬をすりよせる。そういう毎日の積み重ねが、この土の下に詰まっている。
精霊が見えるようになったのは、去年の夏だった。それまではただの気配だったのに、今ではこうして畝の上を転がって、土の出来を自慢してくる。
畑仕事に相棒がいるというのは、思っていた以上に心強いものだった。独りで黙々とやっていた頃と、同じ作業でも張り合いがまるで違う。
「そうか。じゃあ今年も、コロのおかげだな」
そう言ってから、俺はふと手を止めた。
……いや待て。俺は今、精霊にというより、なんだか土そのものに礼を言ってなかったか。
畑仕事を一年もやると、土に話しかけるのが普通になってくるらしい。都会のデスクにいた頃の俺が見たら、目を丸くするだろうな。まあ、悪い変わり方じゃない。
コロは「えへへ」と目を細めて、また畝の上をころころ転がっていった。
俺はもう一度、指の土を握って、開いた。
去年のこわばった土と、今のこのふかふかを、手のひらが覚えている。同じ畑で、同じ場所で、それでもこんなに変わるのだ。
「畑って、一年やって、やっと少し分かってきた気がするな」
分かってきた、というより、ようやく土のほうが俺を信用しはじめた、という感じかもしれない。どちらでもいい。手応えは、確かにある。
仕事というものは、たいてい一年で一周する。四季をひとめぐりして、はじめて全体の段取りが見えてくる。畑も、きっとそういうものなのだろう。
一周目で覚えたことを、二周目はもっと早く、もっと丁寧にやれる。そう考えると、これから先が楽しみでしかたなかった。
俺は立ち上がって、青々とした畝をぐるりと見渡した。二年目の畑が、頭の中でもう勝手に広がっていく。
「……来年は、もっといけそうだ」




