第142話
縁側で茶を一口すすったら、拭き込んだ床板が朝の光をつるりと返した。
その艶を見ているうちに、ふと、この山に着いた最初の日のことが頭をよぎった。あの日、この床は光なんて返しちゃいなかった。埃が指の厚みほど積もって、踏むたびに足の裏がざらついたのだ。
軽トラを停めて、意気揚々と戸を引き開けた瞬間を、今でもよく覚えている。
まず飛び込んできたのは、黴と埃の匂いだった。天井の隅には見事な蜘蛛の巣が幾重にも張って、光の筋がそこだけ銀色に濁っていた。土間には枯れ葉が吹き込み、雨戸は歪み、庭に至っては、伸び放題の雑草が腰の高さまで茂って、どこまでが道でどこからが藪なのかも分からなかった。
「……趣のある古民家、ねえ」
写真の売り文句を思い出して、あの日の俺は乾いた笑いをこぼしたものだ。趣というより、立派な廃屋である。
結局、初日は掃除だけで日が暮れた。埃を掃き出し、蜘蛛の巣を払い、雑巾を何度もすすいでは真っ黒にして。寝起きする一間を人の住める状態にするだけで、腕も腰も悲鳴を上げていた。
畑を起こすどころか、庭の雑草に手をつける気力すら残っていなかった。米を炊いて、腹を満たすので精一杯。
布団に倒れ込んだときの、あのへとへと具合ときたら。
「こんなの、一人で片付くのか……?」
正直、そう弱音を吐きたくもなった。全財産をはたいて手に入れたのが、この埃と雑草の山かと思うと、我ながら大した度胸だと呆れたものだ。
◇◇◇
それが、どうだ。
目の前の床は、裸足で歩いても埃ひとつつかないくらいに磨かれている。障子は白く張り替わり、雨戸は素直に滑る。庭に目をやれば、腰まであった雑草はとうに消え、代わりに耕された段々畑が、青々とした夏野菜を掲げて朝日を浴びている。
その畑の向こう、庭の隅には、俺がこしらえた無人の直売所が朝の光を受けている。棚には採れたての野菜が並び、律儀な常連さんが今日も対価を置いていってくれたらしい。
あの荒れ果てた庭と、同じ場所だとは思えない。
思えば、一足飛びに片付いたわけじゃなかった。今日はここ、明日はあそこと、区切っては手を入れて。抜いた雑草の数も、張り替えた障子の枚数も、もう覚えちゃいない。ただ毎日、少しずつやってきた。その積み重ねが、そっくりそのまま、今のこの景色になっているだけだ。
そして何より、あの日の静けさとは、空気がまるで違う。
かまどのあたりで、火の気配がぱちりと機嫌よく爆ぜる。水がめの底で、ひやりと涼しいものが揺れている。作業台の上では、渋い顔をした木の気配が腕を組んでいて、俺の肩には、さっきからモフモフした苔玉がちょこんと乗っている。
あの頃、この家にあったのは、黴と埃と、深い静けさだけだった。それが今は、笑い声みたいな気配で、家じゅうが満ちている。
柱の陰でも、床下でも、名もない小さな光がそわそわと瞬いている。掃いても掃いても埃しか出てこなかった家に、いつのまにか、こんなに賑やかなものが棲みついていた。
「あるじ」
肩の上で、コロがのんびりと揺れた。まんまるの目が、磨かれた床と、青い畑とを、ゆっくり見渡していく。
「ここ、むかしは さみしいやまだったの。いまは あったかいの」
その言葉に、俺は思わず茶碗を持つ手を止めた。さみしい山、か。埃をかぶって、誰にも見向きもされずに、静かに朽ちていくのを待つばかりだった、あの荒れ山。
あの頃のこいつらは、いったいどんな気持ちで、この家を眺めていたんだろう。冷えきったかまどや、朽ちかけた柱を、ただ黙って見ているしかなかったのかもしれない。
そう思うと、なんだか胸の奥が、じんわりとあたたかくなった。俺が片付けてきたつもりの一年は、こいつらにとっても、少しは待ち甲斐のある一年だったんだろうか。
「そうだな。……あったかく、なったな」
俺は苔玉のあたまを、指の腹でそっと撫でた。コロは気持ちよさそうに、ふにゃりと目を細める。
変化の大きさに、自分でも少し驚く。あの埃だらけの一日目から、たった一年。それだけで、山ひとつがこんなに変わるものか。
いや、たったの一年、じゃないな。三百六十五日ぶんの、掃除と、鍬と、飯炊きと。そういう地味なやつを、ただ積んできただけの一年だ。
思い返せば、派手な出来事なんて何ひとつなかった。ただ、朝起きて火を熾し、畑をいじって、飯を作って、日が暮れたら眠る。それを飽きもせず繰り返していただけだ。
なのに、気づけば手はすっかり節くれ立って、鍬もかまども、体の一部みたいに馴染んでいた。埃を前に途方に暮れていたあの日の自分に、この手を見せてやりたいくらいだ。
積み重ねってのは、たぶん、こういう地味な顔をしているんだろう。一日ぶんじゃ何も変わって見えないのに、三百六十五日集めると、山ひとつを丸ごと変えてしまう。
「……よく、ここまで来たもんだな。俺も、この山も」
誰にともなく呟いて、俺はぬるくなった茶を飲み干した。荒れ山と、一緒に歩いてきた一年を、労うみたいに。
磨かれた床が、また朝の光をつるりと返す。今度はその艶が、なんだか誇らしげに見えた。




