第141話
朝の光で目が覚めて、縁側の雨戸を開けると、山じゅうが青かった。
萌えるような若葉が斜面を埋め、風が通るたびに葉の裏が銀色にひるがえる。あちこちの梢から、鳥の声が降ってくる。冷たく澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、体の芯がしゃんと目覚めた。
新緑の朝だ。この匂いには、覚えがある。
湯を沸かす前に、俺は縁側に腰かけて、しばらくその青を眺めていた。急ぐ用もない朝は、こういう贅沢ができる。
ふと、去年のことが胸をよぎった。ちょうど今ごろ、いや、もう少しだけ季節が浅かった。晩春の、こんな新緑の頃に、俺は軽トラ一台でこの山に登ってきたのだった。
同じ新緑だ。目に映る青の色は、去年とちっとも変わっていない。
なのに、見えているものが、まるで違う。
視線を落とせば、そこには手入れの行き届いた段々畑がある。青々とした夏野菜の葉が、朝露を弾いて光っている。去年のこの時期、あそこはまだ雑草に埋もれた荒れ地で、大根とネギが細々と生き延びているだけだった。
庭の隅には、板を組んで作った直売所。棚にはきちんと洗った野菜と、瓶詰めの漬物が並んでいる。料金箱には、今朝も見慣れない古いコインが一枚、ちょこんと落ちていた。
縁側の先には、湯を張った風呂。裏手には薪棚。土間には、煤で黒光りするかまど。どれもこれも、一年前には無かったか、荒れ果てていたものばかりだ。
思えば、着いた最初の夜は、冷えたおにぎりを一つかじって、埃っぽい部屋の隅で泥のように眠っただけだった。湯を張るどころか、水回りが使えるかどうかも怪しかった。
それが今朝は、目が覚めれば風呂に湯があり、畑に飯の種があり、棚に自分の作った品が並んでいる。当たり前になってしまったから忘れていたが、一つひとつ、去年の俺が地道に積み上げてきたものだ。
「そうか……この山に来て、もう一年、経ったのか」
声に出してみて、ようやく実感が追いついてきた。季節がぐるりと一巡して、また同じ場所に帰ってきたのだ。
一年。長かったのか、短かったのか、自分でもよく分からない。ただ、指を折って数えるより先に、体のほうが「ずいぶん来たな」と言っている気がした。
元SEの癖で、つい一年ぶんの"進捗"を棚卸ししたくなるが、まあ、それは追い追いでいい。今朝は、ただ景色を眺めていたい気分だ。
と、肩のあたりが、ふわりと軽く沈んだ。
「あるじ、また あおいきせつが きたよぉ」
振り向くと、両手大の苔玉——コロが、いつのまにか肩にちょこんと乗っていた。まんまるの目を細めて、山の青をうれしそうに眺めている。
去年の今ごろ、こいつはまだ姿すら見えなかった。物が動く、光がよぎる、それだけの「気配」でしかなかったのだ。それが今は、こうして肩の上で、俺と一緒に新緑を眺めている。
水場の縁では、スイがぷかぷかと揺れていた。
「あるじ、若葉の露は格別ですわ。今日のお水も、きっと甘くなりますわよ」
土間からはエンが顔を出し、「この季節はかまども機嫌がいいぜ!」と、尻尾の火をゆらめかせる。縁側の柱の上ではモクが腕を組んで新緑を見上げ、「フン……まあ、悪くない芽吹きだ」と、いつもの渋い顔で満足げに頷いていた。
賑やかなものだ。独りになりたくて逃げてきた山なのに、今や、朝から四匹がかしましい。それでいて、この賑やかさが、ちっとも煩わしくない。むしろ、いなかったら、きっと物足りないのだろう。
俺は湯呑みを両手で包んで、もう一度、山の青をゆっくりと見渡した。
手入れされた畑。品の並ぶ棚。湯を張った風呂。そして、思い思いに新緑を喜ぶ相棒たち。同じ新緑が去年とまるで違って見えるのは、きっと、この一年で俺の暮らしのほうが変わったからだ。
ふと、思う。一年前のあの日、この山に着いたばかりの俺は、この暮らしなんて、まるで想像もしていなかった。
立派なボロ家に途方に暮れて、白飯一杯にびっくりして、正体不明のコインに首をかしげて。あの頃の俺に、今のこれを見せてやったら、いったいどんな顔をするだろう。
「あの頃の俺に、今のこれを見せてやりたいな」
畑も、風呂も、賑やかな相棒たちも全部ひっくるめて、「一年後、お前、こんなとこで暮らしてるぞ」と教えてやりたい。たぶん、信じないだろうけど。
あの頃の俺は、疲れきって、明日のこともろくに考えられなかった。ここでやっていける自信なんて、これっぽっちも無かった。それでも、六十点でいいと自分に言い聞かせながら、一日ぶんの仕事を、ただ黙々と積んできた。その一日一日が、気づけば、この景色になっていたわけだ。
コロが肩の上で、同意するみたいに、こてんと首をかしげた。
新緑の匂いは、去年と何ひとつ変わらない。変わったのは、この匂いを吸い込む俺のほうだ。そのことが、朝の光の中で、静かに、じんわりと胸に落ちてきた。
さて、と俺は膝を叩いて立ち上がった。感傷はこのくらいにして、まずは朝飯にしよう。二年目の初夏の、記念すべき一日が、静かに始まろうとしていた。




