第140話
朝の光が、芽吹いたばかりの山を、うっすらと緑に染めていた。
縁側に腰かけて茶をすすりながら、俺はぼんやりとその眺めを見ていた。去年の秋には枯れ色だった斜面が、いつのまにか若葉でふくらんで、風が渡るたびにさわさわと揺れている。
冬を越すと、山はこんなにも生き返るものらしい。眺めているだけで、こっちの体まで軽くなる気がした。
思えば、この春はやたらと賑やかだった。
始まりは、宵さんだ。
森野さんに「面白い知り合いがいる」と紹介されて訪ねた、街外れの夜カフェ。日が落ちてからしか灯らない、静かで上品な店だった。透けるように白い肌の店主が、ワイングラスを傾けながら、含みのある微笑を浮かべて俺を迎えてくれた。
「発酵はね……待つ料理よ。急かしても、いいことは何もないの」
あの落ち着いた低い声で、宵さんはよくそう言った。発酵、熟成、保存——時間をかけて味が育っていく世界のことを、あの人は驚くほど深く知っていた。
生き字引みたいな人だな、と俺はいつも感心していた。いったい何年、あの店をやっているんだろう。
宵さんに教わりながら、俺はこの春、いろんなものを仕込んだ。
なかでも忘れられないのは、去年の秋に仕込んだ味噌の樽の、重い蓋を開けたときのことだ。ふわりと立ちのぼった、深く芳ばしい香り。
仕込んだときはただ塩辛いだけだった豆と麹が、一年という時間をかけて、飴色のなめらかな味噌に変わっていた。指先で味見して、その旨みの深さに、思わず声が漏れた。
「うわ……これは、待った甲斐があった」
時間ってやつは、放っておくだけで、こんなに旨いものを作ってくれるのか。
肩の上で、コロがうれしそうに揺れた。
「ね、いいにおいでしょ? コロ、ずうっと見てたんだよぉ。おいしくなあれって」
そのそばで、スイもぷかりと胸を張る。
「お味噌の樽の湿り気は、わたくしがちょうどよく保っておきましたわ」
みんなのおかげだな、と俺は笑った。俺はただ豆を煮て、塩と麹を混ぜて、あとは待っていただけなのに。
その熟成味噌を、この春は存分に使い倒した。とろりと焦げる味噌田楽、春野菜と地鶏の味噌鍋、卵黄の味噌漬け。角の取れた、深くまろやかな旨みだ。
一年前の、塩辛かっただけのあれと同じ味噌だとは、とても思えない。田楽の焦げ目をつけるのはエンの担当で、「あるじ、この焦げ目、オレの最高傑作だぜ!」と、そのたびに鼻を高くしていた。
宵さんに教わったのは、味噌だけじゃない。ぬか床を毎日かき混ぜて春の野菜を漬け、チーズや保存食の熟成の勘どころも、少しずつ手ほどきを受けた。
山ぶどうで仕込んだワインも、納屋の隅でゆっくりと育っている。実を潰し、糖を加え、瓶に移して、あとはただ待つ。
ぷつぷつと立ちのぼる小さな泡を、宵さんは我が子でも見るような目で眺めていた。飲めるのは、まだ数ヶ月先だという。
楽しみは、あとにとっておくものよ——そう言って笑った横顔が、妙に様になっていた。
おかげで、納屋の一角はすっかり熟成の棚になった。味噌の樽、ぬか漬けの甕、仕込みかけのワイン、干した保存食が、ずらりと並んでいる。
棚を眺めるたびに、なんだか宝物庫みたいだと、俺はにやけてしまう。時間が、放っておくだけで勝手に美味しくしてくれる。こんなに贅沢な貯金は、ほかにない。
そうして発酵だ熟成だと暮らしているうちに、この山は、いつのまにかやけに賑やかになった。
露天風呂の評判が広まったらしく、みんな、湯を目当てに集まってくるようになったのだ。
森野さんが「いい湯だと聞きました」と静かに訪ねてくる。鉄本さんが「鉄鍋を打ったから持ってきたぞ」と豪快にやって来る。
鞍馬さんが「儂の見立てた湯だ、たまには浸かってやる」と偉そうに現れて、宵さんは夜のうちに、そっと湯を使いに来る。
湯上がりの縁側で、みんな口をそろえて言うのだ。
「ここにいると、心がほどけます」
「疲れが、芯から抜けるんだよなあ」
「また来たくなる、不思議な山だ」
そんなに褒められると、こっちが照れる。ただの手作りの露天風呂と、なんてことない山なのに、みんな大げさなんだから。
人が増えるほど、精霊たちが元気になるのも面白かった。
エンはかまどの前で張り切って、「宴といったら火だろ! オレに任せろ!」と胸を張る。モクは客用の椅子をちらりと見て、「フン……もう一脚、あってもいいな」なんて渋い顔でつぶやく。
賑やかなのが、こいつらは根っから好きらしい。誰かが来るたび、家じゅうの小さな光まで、そわそわとうれしそうに瞬いていた。
春のある日には、気づけば全員がそろっていたこともあった。露天風呂の湯気と、熟成味噌の料理と、山菜と、宵さんが持ってきた深い赤のワイン。それぞれが思い思いに寛いで、笑い声と酒の香りが、芽吹きの山いっぱいに満ちた。
風呂上がりに夜風を浴びながら飲む一杯のワインは、体の芯まで沁みた。宵さんが隣で目を細めて、「わかるでしょう? 待った時間が、そのまま、味になるの」と言った。急がなくていい暮らしの味は、たしかに悪くなかった。
茶をすすりながら、俺はあらためて山を見渡した。
独りになりたくて、逃げるようにして買った荒れ山だった。瓦は苔むし、雨戸は歪んで、蜘蛛の巣ばかりが立派だった、あのボロ家。
それが、いつのまにか精霊も、あの変わり者たちも集う、みんなの居場所になっている。
「一年前の俺には、想像もできなかったな、この賑わいは」
独りごちて、俺は少しだけ笑った。
◇◇◇
同じころ、遠い異世界の辺境で。
ネル村では、春の感謝祭が、ちょうど終わったところだった。
冬の間に村人総出で立て直した、立派な祠の前。花が供えられ、歌が響き、人々が恵みへの感謝を捧げる。痩せた土地と魔獣に怯えていた、かつての寒村の面影は、もうどこにもない。
行商のガロは、祭りのあとの静かな祠に、そっと手を合わせた。
「祠の主さま。おかげさまで、村はもう、飢えません」
いつからか、祠の主さまへの祈りは、素朴な願いを超えていた。春を寿ぐ祭り、村の年中行事、そして人々の心の支え。
恵みは、いまやこの村の誇りであり、文化そのものになっていた。
「この祭りが、いつまでも続きますように」
ガロは深く頭を垂れた。祠の向こうにいるという、姿の見えない主さまへ。その主さまが、遠い山の縁側で、のんきに茶をすすっていることを、ガロは知らない。
そして俺のほうも、遠い異世界で自分が祭られ、祭りまで開かれていることなど、知りもしなかった。
◇◇◇
茶を飲み干して、俺はふと、この春のことを、指を折って数えてみた。
「宵さんに、発酵に、春の宴か」
指が三本、折れる。それから、ふと手を止めた。
「……そういえば、この山に来て、もうすぐ一年——いや、もう一年以上、経つのか」
軽トラの荷台で縄がぱたんと鳴った、あの日。肺の底まで新緑の匂いが流れ込んで、体の芯に詰まっていた重たいものが、すっと軽くなった、あの日。
あれから、夏が来て、秋が来て、冬を越して、また春が巡ってきた。四季がひとめぐりする間に、俺の暮らしは、まるで別のものに変わっていた。
独りで飯を炊いていたはずが、いまは誰かのために湯を沸かしている。誰にも急かされたくなくて逃げてきたはずが、いまは人が来るのを、心のどこかで待っている。
「独りになりたくて来たのに、こんなに賑やかで、こんなに満ち足りるとはなあ」
我ながら、おかしな話だ。でも、悪くない。むしろ、こういうのも、いい。
芽吹きの風がひとつ、山を撫でて通り過ぎた。俺は目を細めて、その青い匂いを、胸いっぱいに吸い込む。
「……ちょっと、この一年を、ちゃんと振り返ってみるか」
まだ温もりの残る湯呑みを両手で包んで、俺はそう、静かにつぶやいた。
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あとがき
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