第139話
宴の熱がゆるゆると引きはじめたのは、月がずいぶん高くなったころだった。
あれだけ賑やかだった庭が、いつのまにか少しずつ静かになっていく。食べて、飲んで、湯に浸かって、笑って。人も精霊も、満ち足りた顔で、そろそろ腰を上げる気配を漂わせていた。
最初に立ち上がったのは、森野さんだった。庭の古い梅の木にもう一度目をやってから、穏やかに俺を振り返る。
「今日は、ごちそうさまでした。……いい夜でしたね」
そう言って、少し名残惜しそうに山の稜線を見上げる。
「また来ますよ。今度は、いい木の話を持ってきます。あなたの山に似合いそうな苗に、心当たりがあるんです」
木の話、と聞いて俺は思わず顔がほころんだ。この人の木の話は、いつ聞いても面白い。楽しみが、また一つ増えた。
鉄本さんは、火照った顔で最後の一杯をあおると、どんと湯呑みを置いた。
「よし、俺もそろそろ帰るわ。……いや、食った食った」
立ち上がりざま、俺の肩をばしんと叩く。相変わらず、手加減というものを知らない人だ。
「今日はいい飯だったぞ、結城。次は酒だ、待ってろ。とびきりのやつを仕込んで、持ってくるからよ」
ハッと笑って、大股に軽トラのほうへ歩いていく。次は酒、と言われて、もう次の宴のことを考えはじめている自分に気づいて、俺は少しおかしくなった。
鞍馬さんは、湯からとうに上がって、縁側で悠々と月を眺めていた。俺と目が合うと、鷹揚に頷いてみせる。
「うむ、良い湯であった。……儂もそろそろ、山へ戻るとするか」
ゆっくりと立ち上がり、肩の手拭いをひと振りする。
「なあ結城。あの岩場の眺めだが、木の枝が少々邪魔でな。すっきり払って眺めが良くなったら、儂を呼べ。すぐに来てやる」
眺めが良くなったら呼べ、とは、ずいぶん殿様な注文だ。けれどそれは、また来るための口実を自分でこしらえているようにも聞こえて、なんだか可笑しかった。
◇◇◇
いちばん最後まで残っていたのは、宵さんだった。
夜がふけるほどに生き生きするこの人には、みんなが引きあげたあとの、静まった庭がよく似合う。持ってきたワインの残りを、名残を惜しむようにゆっくりと飲みほして、そっとグラスを置いた。
「ふふ。……いい夜だったわ。こんなに賑やかなのも、たまには悪くないものね」
立ち上がって、夜気をまとうように、闇のほうへ歩きだす。
「わたしは、夜がいちばん落ち着くの。だから、また来るわ。……ええ、夜に、また」
振り向いた顔が、月あかりに白く浮かんで、ふっと微笑んだ。次に会うのはきっと夜だ、と当たり前みたいに思わせる、不思議な人だった。
それを最後に、賑わいはすっかり山から引いていった。
◇◇◇
軽トラのエンジン音が遠ざかり、夜道の向こうに客たちの気配が消えていく。あれほど湯気と話し声で満ちていた庭が、しんと静まりかえった。
急に、あたりが広く感じられる。虫の音と、風が梢を撫でる音だけが戻ってきて、山はまた、いつもの夜の顔になった。
縁側には、飲みかけの徳利や、空になった皿がまだ残っている。露天風呂からは細い湯気が、名残のように立ちのぼっていた。ついさっきまでここに人がいて、笑い声があった。その手触りだけが、そこかしこに温かく残っている。
けれど、その静けさは、来る前とは少し違っていた。宴の余韻をたっぷり含んで、どこかあたたかい。賑やかなのも良かったし、この静けさもまた、悪くない。どちらも、今のこの山の一部なんだと思う。
精霊たちも、少し名残惜しそうにしていた。コロが肩の上で、ぽふんと小さく身じろぎする。
「みんな、かえっちゃったねぇ。……にぎやかで、たのしかったなの」
スイは風呂の縁で、湯の面をなでるようにぷかぷか揺れている。
「お客さまのお湯、腕によりをかけたんですのよ。……もう、お帰りになってしまったんですのね」
エンはかまどの残り火のそばで、少し寂しげに尻尾の火を細めていた。作業台の上のモクだけが、いつものように腕を組んで、ぽつりとこぼす。
「フン……たまには、こういうのも悪くないな」
素直じゃないその言い方に、俺はつい笑ってしまった。みんな、賑わいが去るのが、ちょっと惜しいのだ。
俺は片づけをひとまず置いて、縁側に腰を下ろした。冷めかけた茶を手に、誰もいなくなった庭をぼんやり眺める。
「行っちゃったか」
ふう、と息をつく。
「……また来てくれると、いいな」
人をもてなすのが、こんなに楽しいものだとは知らなかった。そして、その賑わいが帰っていくのが、こんなに少し寂しいものだとも知らなかった。もてなす喜びと、見送る寂しさ。そのどちらも、俺はこの春に、初めて知った気がする。
独りになりたくて逃げてきた山が、いつのまにか、誰かがふらりと訪ねてくる場所になっている。それが、悪くない。むしろ、じんわりと嬉しい。
膝の上で、コロがうとうとと船をこぎはじめた。俺はその温もりを起こさないように、そっと夜空を見上げる。次は誰が来るかな、なんて、気の早いことを考えながら。




