第137話
このごろ、山に人の来る日が増えた。
森野さんが「いい木が入りました」と顔を出し、鉄本さんが「鉄鍋を打ったから使え」とやって来る。鞍馬さんは「眺めを見に来た」と言いつつ湯を狙っているし、宵さんは日が落ちてから、音もなく現れる。
そのたびに、俺の体は勝手に動いていた。
誰かの気配が門のあたりでした瞬間、もう頭より先に手が段取りを組んでいる。まず湯だ。五右衛門と露天のどちらを焚くか決めて、薪をくべる。次に米。土鍋を火にかけて、それから肴を見繕う。
「いらっしゃい。すぐ湯、沸かしますね」
自分でも笑ってしまうくらい、口が滑らかにそう言う。
考えてみれば、前の暮らしではこんな段取りは一度も組まなかった。飯は買うもの、風呂は自分ひとりのもの、客なんて来やしなかった。それがどうだ。今は誰かが来ると聞くだけで、頭の中に工程表がぱっと立ち上がる。元SEの悪い癖かもしれないが、こういう段取りは、嫌いじゃない。
湯が沸くころには、飯も炊きあがっている。
熟成の味噌で田楽を炙り、ぬか漬けを切り、去年仕込んだ保存食を並べる。酒は、宵さんが分けてくれたワインか、鉄本さんが好む冷や酒か。相手の顔を思い浮かべながら棚から選ぶこの時間が、なんだかんだで一番楽しい。
「うちで良ければ、いつでもどうぞ」
いつからか、これが口癖になっていた。
泊まっていくと言われれば、奥の一間に布団を敷く。モクが手を貸してくれた作業台のおかげで、客用の膳もいくつか増えた。もてなす、なんて大層なことを構えているつもりはない。ただ、来た人に腹を空かせて帰らせたくないだけだ。
思えば、来るたびに要件を聞くこともなくなった。
最初のうちは「今日は何のご用で」と律儀に尋ねていたのに、このごろは誰が来ても、まず湯と飯だ。用があろうがなかろうが、腹ごしらえと風呂が先。順番が、すっかり体に染みついてしまった。段取りというより、もう暮らしそのものになっている。
◇◇◇
賑わいが増えるほど、元気になるやつらがいる。
精霊たちだ。人が来る日は、四匹そろって、目に見えてそわそわしている。
コロが俺の肩の上で、まんまるの目をきらきらさせて弾んだ。
「にぎやかだと、コロ、うれしいなの」
苔玉のくせに、うれしいと体がぷりぷり揺れるのが可笑しい。畑の野菜も、来客のある週はなぜかよく育つ気がする。気のせいか、それともコロが張り切っているのか。
風呂場では、スイが湯の縁でぷかぷかと胸を張っていた。
「お客さまのお湯を整えるの、腕が鳴りますわ」
言うだけあって、客の入る日の湯は格別に柔らかい。冷めにくく、角が取れて、肌にまとわりつくようだ。宵さんが「あなたの山の湯は、ほかとは違う」としきりに褒めるのも、半分はこいつの働きなんだろう。
かまどのそばでは、エンが尻尾の火をめらめら躍らせている。
「宴といったら火だろ! 任せろ!」
田楽の焦げ目も、鍋のひと煮立ちも、こいつが横についていると仕上がりが一段違う。火の番を任せてしまえるのは、正直、ずいぶん楽だ。相棒としては頼もしいことこの上ない。
作業台の上では、モクが腕を組んで、渋い顔のまま宙をにらんでいた。
「フン……客用の椅子、もう一脚あってもいいな」
言うが早いか、材のありかを目で示してくる。頭の中ではもう、次に何を作るか算段しているらしい。職人肌のこいつが「もう一脚」と言うときは、たいてい、それが必要になる日が近い。
四匹とも、客が来ると水を得た魚のようになる。
誰に頼まれたわけでもない。ただ、この山で誰かをもてなすことが、いつのまにか俺たちの暮らしの当たり前になっていた。
◇◇◇
その夜も、ひとしきり客を送り出したあとだった。
縁側に腰を下ろして茶をすすっていると、四匹が思い思いの場所で、まだどこか満ち足りた顔をしている。コロは膝の上、スイは湯の名残に浸かり、エンはかまどの残り火で暖をとり、モクは作業台で腕を組んだまま。
俺は、そのようすをぼんやり眺めた。
「みんな、お客さんが好きなんだな」
誰へともなく、そう呟く。返事はないが、コロがぷりんと一度、うれしそうに揺れた。
空の茶碗を置いて、両手を後ろについて空を仰ぐ。星がやけに近い。人の帰ったあとの静けさは、賑わいの余韻をふくんで、妙にあたたかかった。
独りになりたくて、この山に来たはずだった。
それがいつのまにか、湯を沸かし、飯を炊き、酒を出し、寝床を整える毎日だ。しかも、それを面倒だと思ったことが一度もない。むしろ、来ると聞けば胸のどこかが弾んでいる。
「……俺も、いつのまにか、もてなすのが好きになってたのかもな」
口に出してみて、自分で少し驚いた。
昔の俺なら、笑い飛ばしていたかもしれない。人に尽くすのは疲れるだけだと。けれど今は、誰かがうまそうに飯を食い、湯に浸かってほどけていく顔を見るのが、単純に、いい。
膝の上のコロが、寝入りかけて小さく寝息を立てはじめた。
まあ、六十点主義の俺にしては、上出来の暮らしじゃないか。星を見ながら、そんなことを思う。
明日は誰が来るだろう。そう考えるだけで、もう頭の隅で湯加減の算段が始まっている。困ったものだ。困ったものだが、悪くない。




