第136話
辺境の空から、長い冬がようやく退いた朝だった。
ネル村に、春が来た。
街道の終わりにへばりつく、数十戸ばかりの小さな村。痩せた土地と森の魔獣に、代々痛めつけられてきたこの村にとって、春はいつも、生き延びた者だけが迎えられる季節だった。
だが今年は、違った。
ひとりも欠けることなく、村じゅうが揃って、この春を迎えたのだ。老人も、幼い子どもも、誰ひとり冬に奪われなかった。それが、どれほど途方もないことか。行商のガロは、雪解けの道を歩きながら、幾度も胸のなかで噛みしめていた。
道の脇では、雪の消えた土から蕗の薹が顔を出し、鳥が忙しなくさえずっている。かつては、春そのものが恨めしかった。何人を見送ったかを、指で数える季節だったからだ。
それが今年は、ただ、まぶしい。
村外れの辻には、立派な祠が建っていた。
冬のあいだ、村人が総出で建て直したものだ。かじかむ手で石を積み、木を組み、屋根を葺いた。かつて苔むして傾いていた小さな石の祠は、いまや村じゅうの誇りとして、朝の光を静かに受けている。
新しい柱は、まだ木の香りを残していた。慣れない手つきで彫られた紋様が、素朴ながらも、精いっぱいの敬いを伝えている。
その祠の前に、村じゅうの者が集っていた。
春の感謝祭である。
女たちが、雪の下から真っ先に咲いた花を摘んで、供物台に飾っていく。子どもらが、摘みたての野の花を握りしめ、背伸びをして祠に供える。祭壇には、金貨も、上等な毛皮も、色とりどりの花に埋もれるように積まれていた。
村の長老たちは、祠の前に並んで座り、一年の恵みを一つひとつ数え上げていた。飢えを救った糧のこと、魔獣を退けた道具のこと、病を癒した実のこと。それを若い者や子らに、繰り返し語り聞かせている。
覚えておけ、と長老は言う。この村がどれほどの恵みに生かされているかを、決して忘れるな、と。忘れないことが、そのまま感謝の形になるのだと。
誰かが、素朴な笛を吹きはじめた。
それに合わせて、手拍子が起こる。老いも若きも輪になって、たどたどしい歌をうたい、足を踏み鳴らして踊りだす。恵みへの、ありったけの感謝を込めて。
誰が決めたわけでもない歌詞に、いつしか「主さまのめぐみ」という一節が織り込まれていた。子どもらは意味も分からぬまま、それを繰り返し口ずさんでいる。
この歌は、きっと来年も、その次の年も歌われるのだろう。
ガロは、その輪の外で、しばらく立ち尽くしていた。
去年の春、この村にこんな笑い声はなかった。冬を越すたびに、誰かの姿が消えていた。それが当たり前だと、皆が諦めていた。
あの、うつむいて火を見つめるしかなかった村が……いまは、こうして空へ向けて歌っている。
その村が、いま、こんなにも明るく歌っている。
この祭りは、もう一度きりの喜びではなかった。来年も、その次も、春が巡るたびに繰り返される——村の年中行事として、しっかりと根を張りはじめている。ひもじさの記憶を語り継ぎ、恵みに感謝する日として。
素朴な信仰は、いつしか、村の暮らしを彩る文化になっていた。
ガロは、歌の輪をそっと離れ、祠の正面に進み出た。膝をつき、深く頭を垂れる。組んだ手には、もう震えはなかった。あるのは、静かで、揺るぎない感謝だけだった。
「主さま」
顔を上げ、真新しい祠を見つめる。
「主さま、村はもう、飢えません」
声は、春の風にやわらかくほどけていった。
「この祭りが、ずっと続きますように」
どこの、どんなお方かも知らない。姿を見たことも、声を聞いたこともない。それでも村の者は皆、心のいちばん奥に、この見えぬ主さまを据えていた。
背後では、花と歌と、子らの笑い声が、春の広場に満ちている。ガロは、いつまでも祠に手を合わせていた。
◇◇◇
その、はるか彼方で祭りに祀られている当の主さまは。
山ひとつ向こうの縁側で、俺は袖をまくり、せっせと宴の支度をしていた。
春になってから、この山は妙に賑やかだ。今日も日が暮れたら、あの面々が湯を使いに来る。だったらついでに、と、俺は台所と縁側を行き来しながら、肴の下ごしらえを進めていた。
春の山菜を天ぷらにして、熟成の味噌で田楽を焼く。酒はよく冷やしておく。かまどのそばでは、なんだか小さな灯りが四つ、手伝う気まんまんで揺れている。
「春は、宴の季節だなあ」
誰にともなく、鼻歌まじりにそう呟く。
冬のあいだ、山はしんと静まりかえっていた。それが雪解けとともに、ぽつり、ぽつりと人が集まりだして、気づけばこの賑わいだ。独りが気楽で来たはずの山だが、こうして誰かのために鍋を仕込むのも、案外わるくない。
湯を沸かして、飯を炊いて、酒を出す。それだけのことが、妙に楽しいのだから、我ながら現金なものだ。
「誰か来たら、また一杯やろう」
俺は春菊を切りながら、のんきにそう思っていた。
遠い異世界で、自分が祠に祀られ、村じゅう総出の祭りまで開かれていることなど、俺は何ひとつ知らない。ただ、いい春になりそうだと、鼻歌を続けているだけだった。




