第135話
湯上がりの体から、まだほんのりと湯気が立っている。
春の夕暮れの縁側に、俺たちは思い思いに腰を下ろしていた。露天風呂で芯まで温まった体に、山を渡ってきた風がひやりと触れて、それがどうにも心地いい。日が長くなったぶん、空はまだ薄明るく、西の稜線に紅色の残りを一筋、引いている。
庭の桜はとうに散って、かわりに若葉がいっせいに芽吹きだした。その青くさい匂いが、火照った鼻の奥に、やけにしみる。
縁側に並んでいるのは、森野さんに、鉄本さんに、鞍馬さん、それから宵さんだ。
我ながら、妙な顔ぶれだと思う。林業の森野さん、鍛冶屋の鉄本さん、石屋の鞍馬さん、夜カフェの宵さん。生業もばらばらで、歳も、気性も、まるで揃っていない。それが今日は、なんの示し合わせもなく、気づけば全員うちの山に集まって、そろって湯に浸かっていた。
宵さんが持ってきてくれた赤いワインを、俺は欠けのない客用の茶碗に注いで回した。夜型の宵さんには、まだ少し早い時間だ。それでも「たまには、たそがれ時の一杯も悪くないわ」と、白い指でグラスを傾けている。
「はー……効くなあ、風呂上がりの一杯は」
俺がしみじみ漏らすと、鉄本さんが太い腕で額をぬぐって、がはは、と笑った。
濡れた髪から湯気を立てたまま、あぐらをかいて、いかにも上機嫌だ。
「まったくだ。しかしお前んとこの湯は、いつ入ってもいい湯だな」
鉄本さんは大きく伸びをして、それから、ふう、と長い息を吐いた。
その息の抜けかたが、いつもの豪快な調子とは、少し違った。何か、体の奥に溜まっていたものを、まとめて外へ流したような。そんな抜けかたに聞こえた。
「……疲れが、芯から抜けるんだよ」
鉄本さんは自分の手のひらを、しみじみと見つめている。鉄を打ちすぎて、節くれだった、分厚い手だ。
「うちの工房じゃ、こうはいかん。火の前にいりゃあ、四六時中どこかしら張りつめてる。抜こうと思っても、抜けやしねえ。それがここに来ると……なんでかな、勝手にほどけちまう」
「そりゃ、俺の風呂の手柄というより、鉄本さんが働きすぎなんじゃないですか」
俺が軽く返すと、鉄本さんはまた、がはは、と笑った。
けれど、その笑いのあとに、ふっと黙って湯上がりの空を見上げる横顔は、やっぱりどこか、いつもよりくたびれて見えた。この豪快な人にも、ふだんは見せない疲れが、ちゃんと溜まっているらしい。
その隣で、森野さんが茶碗の赤を、ゆっくりと揺らしていた。
尖った顎に、湯上がりの赤みがほんのりと差している。穏やかな人だが、今日はいつにも増して、静かだった。庭の若葉を眺める目が、どこか遠い。
「わたしも……ここにいると、心がほどけます」
ぽつりと、森野さんが言った。
低く、澄んだ声だった。若葉の匂いに溶けていくような、そんな言い方だった。
「山を歩く仕事ですから、自然のなかにいることには、慣れているつもりでした。木を見て、山を見て、それで足りていると。……でも、ここは、少し違うんです」
森野さんは言葉を選ぶように、そっと目を閉じた。
「ただ自然があるのではなくて。なんというか……迎え入れられている、という感じがする。この山にいると、身構えずに、ただ、いていい気がするんです」
そこで一度、森野さんは口をつぐんだ。
それから、自分でも意外そうに、小さく笑った。
「久しく、こんな気持ちになっていなかった。……ずいぶん、長いこと」
俺は、なんと返せばいいのか分からなかった。
森野さんの「長いこと」が、どれくらいの長さなのか、俺には見当もつかない。ただ、この穏やかな人がそんなふうに言うのだから、よほど張りつめて生きてきたんだろう、とだけ思った。腕のいい人ほど、気の休まらないものなのかもしれない。
肩の上で、コロがもぞりと身じろぎした。両手大の苔玉が、湯気の匂いにうっとりと目を細めている。
「みんな、ほっとしてるねぇ……いいにおいなの」
小さな声が、耳のうしろでくすぐったく鳴った。俺は口の端だけで、そっと笑っておく。
◇◇◇
いちばん端では、鞍馬さんが柱にもたれて、鷹揚に足を組んでいた。
背が高くて、鼻筋の通った、いつもの尊大な佇まい。湯上がりだというのに、その姿勢だけは、ちっとも崩れていない。
俺の視線に気づくと、鞍馬さんは、ふん、と鼻を鳴らした。
「儂は、方々の山を見てきた。それこそ、数えきれぬほどな。良い水の湧く山も、良い気の巡る山も、いくらでも見た」
尊大に語りながら、それでも茶碗の赤を、ちびちびと美味そうに舐めている。
「じゃがな。どうにも、この山だけは、勝手が違う」
鞍馬さんは、庭の若葉から山の稜線へと、ゆっくり目を巡らせた。
その目つきが、石を見立てるときの、あの真剣なものに変わっている。
「良い山なら、他にもある。じゃが、また来たくなる山、というのは、そうそう無い。……不思議な山よ、ここは。一度浸かると、また湯を使いに来たくなる。おのれでも、なぜだか分からんのが、また業腹でな」
言葉は相変わらず大きいのに、その締めくくりが、妙に素直だった。
業腹だ、と言いながら、その目の奥は、ちっとも不機嫌そうじゃない。むしろ、居心地のよさを持て余しているような、そんな顔だった。
「はあ……なんだか、褒められてるのか、けなされてるのか」
「案ずるな。褒めておるのだ。この儂が、な」
鞍馬さんが鷹揚に頷くので、俺はつい、笑ってしまった。
◇◇◇
そして、宵さんだった。
薄明かりのなかで、透けるように白い横顔が、ぼんやりと浮かんでいる。ずっと黙って、みんなの言葉を聞いていた宵さんが、ふと、グラスの赤を灯りにかざした。
その赤の向こうに、遠い何かを透かし見るような目をして。
「そうね……」
低く、少しかすれた声で、宵さんはつぶやいた。
「ここは、特別な場所よ」
たったそれだけの言葉に、なぜだか、しんとした重みがあった。
急ぐことのない、水のような声だった。それでいて、長い時間の底から、そっとすくい上げてきたような。森野さんの「長いこと」も、鞍馬さんの「数えきれぬほど」も、みんなこの一言に、静かに吸い込まれていくようだった。
俺は、四人の顔を、順に見渡した。
林業の森野さん。鍛冶屋の鉄本さん。石屋の鞍馬さん。夜カフェの宵さん。生業も歳も気性もばらばらの、この腕のいい変わり者たちが、湯上がりの縁側で、みんな同じように、ほうっと肩の力を抜いている。
それぞれ、ふだんはよほど気を張って生きているんだろう。だからこそ、こうしてうちに来て、湯に浸かって、ようやくひと息つけている。そういうことなんだと思う。
……そんなに気に入ってくれるなら、こっちも作った甲斐がある。
「そんなに気に入ってくれるなら、嬉しいなあ」
俺は、素直にそう言った。
「うちなんて、ただの荒れ山を、俺が好き勝手に手を入れただけの場所ですよ。それでも、みんながこうしてほっとしてくれるなら、風呂を作った甲斐もあるってもんです。うちで良ければ、いつでもどうぞ。湯なら、いくらでも沸かしますから」
言ってから、俺はワインをひと口すすった。
なんてことのない、当たり前の返事だ。うちに来た客が寛いでくれるのが嬉しい。ただ、それだけのことだ。
いい湯を沸かして、うまい飯を出せば、客は喜ぶ。それは、風呂屋の主人でも定食屋の親父でも、当たり前にやっていることだろう。
俺がやっているのも、たぶん、その程度のことだ。
湯を沸かし、酒を注ぎ、飯を炊く。疲れた誰かが、ちょっと羽を伸ばして帰っていく。それの、どこが特別なものか。
俺の返事を聞いて、四人が、それぞれに顔をほころばせた。
鉄本さんは「言ったな。次は酒持参で泊まりに来るぞ」と豪快に笑い、森野さんは「ありがとうございます」と穏やかに頭を下げ、鞍馬さんは「ふん、ありがたく通ってやろう」と鷹揚に構える。宵さんだけが、何も言わずに、ただ静かにグラスを傾けていた。
◇◇◇
夜が近づいて、そろそろ、と誰からともなく腰が上がった。
鉄本さんが名残惜しそうに湯屋のほうを振り返り、鞍馬さんが「また水を見立ててやる」と言い残し、森野さんが「今度、いい木の話を持ってきます」と微笑む。俺は一人ずつ、庭先まで見送りに出た。
春の宵は、まだ冷える。若葉の匂いに、夜の気配が混じりはじめていた。
みんなが表へ出ていくなか、宵さんだけが、ふと足を止めた。
そうして、俺のすぐそばまで、音もなく寄ってくる。夜型のこの人は、これからがいちばん、生き生きとする時間だ。薄闇のなかで、その白い肌が、月あかりを吸ったように、ほのかに浮いて見えた。
「ねえ」
宵さんは、俺にだけ聞こえるくらいの、ひそやかな声で言った。
「あなたは……知らないでしょうけど」
含みのある目が、俺をまっすぐに見ている。灯りを吸ったような、深い色の瞳だ。
「ここはね、これから、もっと特別な場所になるのよ」
どういう意味ですか、と俺が問い返すより先に、宵さんは口の端だけで、ふ、と笑った。
「ふふ。……覚えておくといいわ」
言うだけ言って、宵さんはもう、夜のほうへ歩きだしている。
その背中を見送りながら、俺は首をかしげた。特別な場所、か。荒れ山を買って、風呂を掘って、飯を炊いているだけの、こんな山奥が。
「特別だなんて、大げさだなあ」
俺は誰にともなく、そうつぶやいて、笑った。
まったく、宵さんはときどき、詩人みたいなことを言う。発酵だの熟成だの、長い時間と付き合ってきた人だから、なんでも大仰に、味わい深く言いたくなるのかもしれない。
うちの山が特別になる、なんて。せいぜい、噂を聞きつけた誰かが、また湯を使いに来てくれる。その程度のことだろう。
夜道の向こうに、四人の影が、それぞれの方角へ散っていく。
俺は縁側に戻って、飲み残しの赤を、もうひと口だけ含んだ。時間をかけて育った味が、喉の奥をあたたかく通っていく。急がなくていい味だ。
肩の上で、コロが眠そうにあくびをした。
「にぎやかだったねぇ……また、みんな来るといいなの」
「そうだなあ」
俺は、暮れきった庭を眺めた。
みんな、ほっとした顔で帰っていった。それが、素直に嬉しい。特別だの、これからだの、大層なことは分からないけれど。誰かが疲れを抜きに来て、また来たいと言ってくれる。俺の山が、そういう場所になっているのなら。
まあ、悪くない。むしろ、いい。
若葉を揺らす夜風のなかで、露天風呂の湯気だけが、白く、ゆらゆらと立ちのぼっていた。




