第133話
夜の山は、昼とはまるで別の生き物になる。
日が落ちて梢のざわめきが静まると、あたり一帯が深い藍色に沈んでいく。虫の声と、遠くの沢のせせらぎ。それだけの、贅沢な静けさだ。
その静けさを、軽トラの音も足音もなく、ふいに訪ねてきた人がいた。
「こんばんは。……夜分に、ごめんなさいね」
玄関先に立っていたのは、宵さんだった。黒いショールを羽織って、片手に細長い瓶を提げている。白い肌が、月あかりにほんのりと光って見えた。
夜型のこの人には、昼よりも、この時間のほうがずっと似合う。会うたびそう思う。
「いえ、待ってましたよ。露天風呂、沸かしておいたんで」
俺が言うと、宵さんは気だるげに目を細めて、ふふ、と小さく笑った。
「ずいぶんな、おもてなしね。うれしいわ」
◇◇◇
露天風呂の縁に、二人で腰を下ろした。
石を組んで作った湯船から、白い湯気がゆらゆらと立ちのぼっていく。それが月あかりに透けて、まるで淡い絹のカーテンみたいに見えた。湯の面には、まん丸の月が一つ、静かに映り込んでいる。
湯のなかで、スイがぷかりと浮かんで、機嫌よさそうに揺れていた。
「あるじ、今宵のお湯は格別ですわ。お客さまですものね、腕によりをかけましたの」
得意げなその声に、俺は小さく笑って湯加減を確かめる。なるほど、いつにも増して、まろやかで角がない。
宵さんが持参の瓶の栓を、きゅっと抜いた。深い赤が、二つのグラスへ静かに満ちていく。ふわりと立つ、熟した果実の香り。
「わたしの店の、とっておき。何年も、地下で眠らせていたものよ」
「へえ……そりゃ、贅沢だなあ」
グラスを合わせると、こつん、と澄んだ音が夜に響いた。
ひと口ふくむ。渋みと甘みが、ゆっくりとほどけていく。慌てて飲む酒じゃない。舌の上に置いて、ただ待っていると、奥のほうから、じんわりと旨みが顔を出す。
「うまい。……なんだか、時間そのものを飲んでるみたいだ」
「ふふ。いいことを言うのね、あなたは」
宵さんは、赤い液体を灯りにかざして、愛おしそうに眺めた。
「摘んだ葡萄を潰して、樽に入れて、あとはただ、待つの。何年も、何十年も。人が手を出せることなんて、ほんの少しよ。あとは、時間が勝手に仕上げてくれるの」
「それ、うちの味噌と一緒だなあ」
去年の秋に仕込んだ樽のことを思い出して、俺は妙にうれしくなった。塩辛いだけだった豆が、放っておいた一年で、飴色にとろけていた。あれも、俺が偉いんじゃない。時間が偉いのだ。
「そうね。……待てる人のところにだけ、おいしいものは残るのよ」
宵さんは、月を映した湯面へ、そっと目を落とした。
湯気の向こうで、その横顔がぼんやりと霞む。急がず、焦らず、まるで夜そのものが人の形をとったような佇まいだった。
風呂のふちで、エンが尻尾の火をゆらしながら、湯を冷ますまいと暖をわけている。コロは俺の膝で、とっくに丸くなって、うとうとしていた。
「静かねえ」
宵さんが、ぽつりと言った。
「宵さんといると、なんというか……時間が、ゆっくり流れる感じがするなあ」
口にしてから、我ながら妙なことを言ったなと思う。時間の速さなんて、どこで測っても同じはずなのに。
それでも、この夜にかぎっては、たしかに秒針がひと呼吸ぶん、のんびりしているような気がした。
宵さんは、しばらく黙ってワインを含んでいた。そして、湯気の向こうから、しみじみと漏らすように言った。
「あなたの山は……時間が、ゆっくり流れるのよ。せかせかしていない」
「そう、ですかね」
「ええ。わたしたちみたいなのには、ありがたいの」
わたしたち、というのが誰のことか、俺にはうまく掴めなかった。夜型の人、という意味だろうか。
「ずっと生きていると、急ぐ世界は、少し疲れるからね」
その声は、ワインの渋みみたいに、静かで、深かった。
ずっと生きていると、か。なんだか、詩人みたいな言い回しだ。夜のカフェをやっている人は、こういう言葉が自然と出てくるのかもしれない。
俺は俺で、深く考えずに、素直にうなずいていた。
「まあ、うちは何にもない山ですけど。急ぐ理由も、ないですからね」
「そう。……それが、いちばんの贅沢なのよ」
宵さんは、目を細めて、ゆっくりとグラスを傾けた。
湯気と、月と、赤いワイン。虫の音のほかには、何も聞こえない。スイが湯のなかで、うっとりと揺れている。
二杯目を注ぎながら、俺はふと思った。この人と飲む酒は、一杯を空けるのに、やたらと時間がかかる。けれど、その長さが、ちっとも退屈じゃない。むしろ、いつまでもこうしていたいくらいだ。
昔の会社では、飲み会ですら時間との戦いだった。終電を気にして、明日の資料を気にして、腹の底から味わった酒なんて、たぶん一度もない。
それに比べたら、今のこの一杯は、なんて長くて、なんて贅沢なんだろう。
「いい夜ね」
宵さんが、湯気の向こうで、ひとりごとのように言った。俺は「ええ、まったく」と返して、また一口、ゆっくりと転がした。
「宵さん。よかったら、また来てくださいよ。夜は、こんなふうに静かなんで」
宵さんは、湯面の月をすくうように、そっとグラスを持ち上げた。
「ええ……そうさせてもらうわ。しばらく、忘れていた気がするの。こういう夜を」
その横顔が、月あかりのなかで、ほんの少しだけ、やわらいだ。
夜はまだ、たっぷりと長い。急ぐ必要は、どこにもなかった。




