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山を買って古民家スローライフ 〜精霊たちと暮らすDIYな田舎暮らし〜  作者: 猫野いちば


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133/207

第133話

 夜の山は、昼とはまるで別の生き物になる。


 日が落ちて梢のざわめきが静まると、あたり一帯が深い藍色に沈んでいく。虫の声と、遠くの沢のせせらぎ。それだけの、贅沢な静けさだ。


 その静けさを、軽トラの音も足音もなく、ふいに訪ねてきた人がいた。


「こんばんは。……夜分に、ごめんなさいね」


 玄関先に立っていたのは、宵さんだった。黒いショールを羽織って、片手に細長い瓶を提げている。白い肌が、月あかりにほんのりと光って見えた。


 夜型のこの人には、昼よりも、この時間のほうがずっと似合う。会うたびそう思う。


「いえ、待ってましたよ。露天風呂、沸かしておいたんで」


 俺が言うと、宵さんは気だるげに目を細めて、ふふ、と小さく笑った。


「ずいぶんな、おもてなしね。うれしいわ」


◇◇◇


 露天風呂の縁に、二人で腰を下ろした。


 石を組んで作った湯船から、白い湯気がゆらゆらと立ちのぼっていく。それが月あかりに透けて、まるで淡い絹のカーテンみたいに見えた。湯の面には、まん丸の月が一つ、静かに映り込んでいる。


 湯のなかで、スイがぷかりと浮かんで、機嫌よさそうに揺れていた。


「あるじ、今宵のお湯は格別ですわ。お客さまですものね、腕によりをかけましたの」


 得意げなその声に、俺は小さく笑って湯加減を確かめる。なるほど、いつにも増して、まろやかで角がない。


 宵さんが持参の瓶の栓を、きゅっと抜いた。深い赤が、二つのグラスへ静かに満ちていく。ふわりと立つ、熟した果実の香り。


「わたしの店の、とっておき。何年も、地下で眠らせていたものよ」


「へえ……そりゃ、贅沢だなあ」


 グラスを合わせると、こつん、と澄んだ音が夜に響いた。


 ひと口ふくむ。渋みと甘みが、ゆっくりとほどけていく。慌てて飲む酒じゃない。舌の上に置いて、ただ待っていると、奥のほうから、じんわりと旨みが顔を出す。


「うまい。……なんだか、時間そのものを飲んでるみたいだ」


「ふふ。いいことを言うのね、あなたは」


 宵さんは、赤い液体を灯りにかざして、愛おしそうに眺めた。


「摘んだ葡萄を潰して、樽に入れて、あとはただ、待つの。何年も、何十年も。人が手を出せることなんて、ほんの少しよ。あとは、時間が勝手に仕上げてくれるの」


「それ、うちの味噌と一緒だなあ」


 去年の秋に仕込んだ樽のことを思い出して、俺は妙にうれしくなった。塩辛いだけだった豆が、放っておいた一年で、飴色にとろけていた。あれも、俺が偉いんじゃない。時間が偉いのだ。


「そうね。……待てる人のところにだけ、おいしいものは残るのよ」


 宵さんは、月を映した湯面へ、そっと目を落とした。


 湯気の向こうで、その横顔がぼんやりと霞む。急がず、焦らず、まるで夜そのものが人の形をとったような佇まいだった。


 風呂のふちで、エンが尻尾の火をゆらしながら、湯を冷ますまいと暖をわけている。コロは俺の膝で、とっくに丸くなって、うとうとしていた。


「静かねえ」


 宵さんが、ぽつりと言った。


「宵さんといると、なんというか……時間が、ゆっくり流れる感じがするなあ」


 口にしてから、我ながら妙なことを言ったなと思う。時間の速さなんて、どこで測っても同じはずなのに。


 それでも、この夜にかぎっては、たしかに秒針がひと呼吸ぶん、のんびりしているような気がした。


 宵さんは、しばらく黙ってワインを含んでいた。そして、湯気の向こうから、しみじみと漏らすように言った。


「あなたの山は……時間が、ゆっくり流れるのよ。せかせかしていない」


「そう、ですかね」


「ええ。わたしたちみたいなのには、ありがたいの」


 わたしたち、というのが誰のことか、俺にはうまく掴めなかった。夜型の人、という意味だろうか。


「ずっと生きていると、急ぐ世界は、少し疲れるからね」


 その声は、ワインの渋みみたいに、静かで、深かった。


 ずっと生きていると、か。なんだか、詩人みたいな言い回しだ。夜のカフェをやっている人は、こういう言葉が自然と出てくるのかもしれない。


 俺は俺で、深く考えずに、素直にうなずいていた。


「まあ、うちは何にもない山ですけど。急ぐ理由も、ないですからね」


「そう。……それが、いちばんの贅沢なのよ」


 宵さんは、目を細めて、ゆっくりとグラスを傾けた。


 湯気と、月と、赤いワイン。虫の音のほかには、何も聞こえない。スイが湯のなかで、うっとりと揺れている。


 二杯目を注ぎながら、俺はふと思った。この人と飲む酒は、一杯を空けるのに、やたらと時間がかかる。けれど、その長さが、ちっとも退屈じゃない。むしろ、いつまでもこうしていたいくらいだ。


 昔の会社では、飲み会ですら時間との戦いだった。終電を気にして、明日の資料を気にして、腹の底から味わった酒なんて、たぶん一度もない。


 それに比べたら、今のこの一杯は、なんて長くて、なんて贅沢なんだろう。


「いい夜ね」


 宵さんが、湯気の向こうで、ひとりごとのように言った。俺は「ええ、まったく」と返して、また一口、ゆっくりと転がした。


「宵さん。よかったら、また来てくださいよ。夜は、こんなふうに静かなんで」


 宵さんは、湯面の月をすくうように、そっとグラスを持ち上げた。


「ええ……そうさせてもらうわ。しばらく、忘れていた気がするの。こういう夜を」


 その横顔が、月あかりのなかで、ほんの少しだけ、やわらいだ。


 夜はまだ、たっぷりと長い。急ぐ必要は、どこにもなかった。


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