第131話
湯から上がると、体の芯までじんわり温もっていた。
露天風呂の縁に腰を下ろし、濡れた髪を夜風に晒す。春とはいえ、山の夜はまだ肌寒い。その冷たさが、火照った体には気持ちいい。ちょうどいい塩梅で、熱がすうっと引いていく。
「はー……生き返るなあ」
誰もいない山で、間抜けにそう呟く。もっとも、今夜は誰かがいた。
石の縁に、宵さんが腰かけている。湯には浸からず、ただ湯気の向こうで、気だるげに月を眺めていた。手には、いつのまにか瓶とグラスが二つ。
「湯上がりに、一杯どう?」
宵さんがグラスを差し出す。とぷり、と注がれた赤が、月あかりを吸って、暗く深い色に沈んだ。
「頂きます。……って、これ、まさか」
「ええ。わたしのところで、長く寝かせたものよ。とっておきを、持ってきたの」
瓶の底で、どれだけの歳月を眠ってきたものか。見当もつかない、深く落ち着いた色と香りだった。
鼻先に近づけると、それだけで香りに厚みがあった。熟れた果実の甘さの奥に、木の実だとか、乾いた花だとか、うまく言葉にできない何かが幾重にも重なっている。ひと瓶のなかに、一年ぶんの季節が詰まっているみたいだった。
ひと口、含んだ。
瞬間、俺は言葉をなくした。渋いだけだったはずの実が、まろやかな甘みと、ふくよかな酸に変わっている。喉を落ちていくと、湯で温もった体の内側から、じんわりと熱が広がった。
「はー……効くなあ。風呂上がりの一杯が、こんなに沁みるとは」
しみじみ漏らすと、宵さんが目を細めた。
「わかるでしょう? 待った時間が、そのまま、味になるの」
待った時間が、味になる。
その言葉が、やけに胸に落ちた。俺は手のなかのグラスを、しばらく黙って見つめてしまった。
「そんなに長く寝かせると、こんなに変わるもんですか」
「ただ、じゃないのよ。仕込んだあとも、瓶のなかでは、ずっと何かが働いている。目には見えないけれど、休まずにね」
宵さんは、自分のグラスを月にかざした。赤が透けて、その白い横顔を淡く染める。放っておいたようで、放っていない。じっと寄り添って、時間が育つのを見届ける。それが、待つということらしかった。
◇◇◇
風呂の縁で、スイがぷかぷか揺れていた。
「あるじ、今日のお湯、最高の仕上がりでしたわ。宵さまがいらっしゃると、腕が鳴りますの」
得意げにそう言って、湯気のなかをくるりと一回りする。
「おかげでいい湯だったよ。ありがとな、スイ」
礼を言うと、スイは満足そうに、また湯の縁に落ち着いた。
宵さんは、そんなやりとりを、含み笑いで眺めている。この人は精霊が見えているらしく、いつもこうして、静かに輪の外から見守っている。
俺はもうひと口、ワインを含んだ。
急がず、舌の上で転がすように味わう。すると、さっきは気づかなかった香りが、後からゆっくりと立ちのぼってきた。飲み進めるほどに、味が奥へ奥へと広がっていく。
「不思議だなあ。急いで飲むと、もったいない気がする」
「そういうものよ。……いいものは、みんな、そう。急かすと、逃げてしまうの」
宵さんの声は低く、夜の湯気に溶けるように穏やかだった。
言われてみれば、と思う。去年から仕込んだ味噌も、毎日かき混ぜているぬか床も、今この瞬間、納屋で泡を立てているワインの瓶も。どれも、俺が急かして良くなったものは、ひとつもない。
ただ、待った。それだけだ。
◇◇◇
俺は縁に寝そべって、夜空を見上げた。
街にいた頃は、こんな空、一度も見上げなかった。いつも何かに追われて、締め切りと終電のあいだで走り続けて、味わうなんて発想すら、どこかに置き忘れていた気がする。
あの頃の俺に、この一杯を飲ませてやりたい。急ぐのをやめても、世界は終わらないぞと、教えてやりたい。
グラスのなかの赤が、星を映してかすかに揺れた。長い時をかけて育った一杯が、こうして今夜、俺の体に沁みている。時間というやつは、待たせておくと、ちゃんと美味しくなって返ってくるらしい。
「発酵も、DIYも、暮らしも……全部、待つと良くなる。急がなくて、いいんだな」
ぽつりと、独り言がこぼれた。
誰かに聞かせるつもりもない、ただの呟きだった。それでも、口にしてみると、それはずっと探していた答えのような気がした。
「……俺、それをやっと、覚えたのかもな」
宵さんは何も言わず、ただ、ふふ、と小さく笑った。
その笑い方が、まるで何百年も前からそれを知っていたみたいで。けれど俺は、月と赤に酔っていて、そこまで深くは考えなかった。
夜風がひとつ、梢を撫でて通り過ぎる。
湯気の向こうで、宵さんが二杯目を注いでくれた。急かさず、たっぷりと間をとって注がれる赤は、さっきよりもいっそう深い色に見えた。同じ瓶の、同じ一杯のはずなのに、二杯目には二杯目の味がある。
湯気が立ちのぼり、星が瞬き、グラスの底に最後のひと口が残っている。それを、俺はことさらゆっくりと、惜しむように飲み干した。
急がなくて、いい。
この山に来て一年余り、四季をひとめぐりして、俺はようやく、そんな当たり前を、体で覚えたのかもしれなかった。




