第130話
納屋の棚から抱えてきた味噌の樽を、俺は土間の作業台にどんと据えた。
去年の秋、豆を煮て、麹と塩を混ぜて、拳で空気を抜きながら仕込んだやつだ。一年、暗がりで静かに寝かせてきた。蓋を開けると、飴色のなめらかな面が、しっとりと光っている。指ですくって舐めれば、深くて、まろやかで、角がまるっきり取れている。
仕込んだ直後は、塩辛いばかりで、正直「これ本当に味噌になるのか」と半信半疑だった。それがどうだ。
「同じ味噌でも、寝かせるとこんなに変わるのか。……去年の、塩辛かっただけのあれが、嘘みたいだ」
時間ってのは、金も手間もかけずに、勝手に美味くしてくれる。こんな都合のいい話が、ほかにあるだろうか。
せっかく育ってくれたんだ。今日は、この味噌を存分に使い倒すと決めた。
◇◇◇
まずは味噌田楽だ。
こんにゃくと厚揚げ、それに畑の菜っ葉の根元を、串に刺して並べる。田楽味噌は、熟成味噌にみりんと砂糖、それから昨日すった山椒をひとつまみ。とろりと練り上げて、串の表面にたっぷりと塗りつけた。
あとは焼くだけ、なんだが——この火加減が、いつも一番むずかしい。焦がしすぎれば苦く、甘ければ味噌が生っぽい。
焚き火のそばで、赤いサラマンダーが尻尾をぱたぱた振っている。火の精霊、エンだ。
「あるじ、まかせろって! 味噌焼くなら、オレの出番だぜ!」
言うが早いか、炭の熾きがふわりと均された。強すぎず、弱すぎず、串の下だけがじんわりと赤くなる。俺は串をかざすだけで、味噌の表面がぷつぷつと泡立ちはじめた。
甘い匂いが、湯気になって立ちのぼる。醤油とはまた違う、味噌ならではの、こっくりと重たい香ばしさ。表面がところどころ、こんがりと色づいて、縁が焦げて反り返っていく。
この、焦げた味噌の匂いってやつは、反則だ。腹の虫が、露骨に鳴った。
「あるじ、この焦げ目、オレの最高傑作だぜ! こんがり、いい匂いだろ!?」
エンが鼻を高くして、胸を張っている。たしかに、絵に描いたような焼き加減だ。俺一人だと、たいてい端っこを黒焦げにするのに。
「ほんとだ。今日のは、我ながら上出来だな」
褒めると、尻尾の火がぼうっと嬉しそうに膨らんだ。
焼きたての一串を、ふうふう言いながら頬張る。表面はこんがり、なかはとろり。焦げた味噌の香ばしさが鼻に抜けて、そのあとから、一年ぶんの深い旨みが、じんわりと舌に広がっていく。甘くて、しょっぱくて、山椒がぴりっと締める。
うまい。文句なしに、うまい。
◇◇◇
田楽で火がついた腹を、今度は鍋で満たしにかかる。
春野菜と、地鶏の味噌鍋だ。土鍋に出汁を張って、熟成味噌をたっぷり溶く。ぐらりと煮立ったところへ、ぶつ切りの地鶏を放り込む。灰汁を丁寧にすくって、あとは春の恵みを次々と。
新玉ねぎ、たけのこ、菜の花、それに畑の隅で採れたうるい。青いものが、味噌色の湯のなかで、みるみる鮮やかに染まっていく。
蓋をして、しばし待つ。土間に、味噌と鶏の匂いが満ちていく。この、待っているあいだの匂いだけで、もう半分は食ったようなものだ。
蓋を取れば、もうもうと湯気。まずは汁をひと口すする。
「……はー、しみるなあ」
鶏の脂と、野菜の甘みを、熟成味噌が全部まるく受け止めている。とがったところがどこにもない。ただ、深い。地鶏はほろりと骨から外れ、たけのこは味噌をたっぷり吸って、噛むとじゅわっと汁が溢れた。菜の花のほろ苦さすら、この汁のなかでは、ごちそうの一部になる。
飯を椀によそって、鍋の汁をぶっかけ、かき込む。行儀は悪いが、これが一番うまい食い方だと、俺はこの山で学んだ。
◇◇◇
締めに、とっておきを出す。卵黄の味噌漬けだ。
三日前、熟成味噌にみりんを混ぜたところへ、そっと窪みを作って、卵の黄身だけを落として寝かせておいた。取り出した黄身は、水分が抜けて、飴色にねっとりと固まっている。まるで、小ぶりの宝石みたいだ。
炊きたての飯の上に、それをひとつ、ころんと乗せる。箸で崩すと、とろりと濃い黄身が、白い飯にじゅわりと絡んでいく。
ひと口。
濃厚な黄身の甘みに、味噌の塩気と旨みが染み込んで、もう、飯が止まらない。おかずというより、これはもはや調味料だ。ひと粒で、茶碗一杯がかき込める。
気づけば、俺は無言で飯をおかわりしていた。田楽も、鍋も、卵黄も、全部この一年寝かせた味噌が、根っこで繋がっている。それぞれ違う顔をしているのに、芯にあるのは同じ、あの深い旨みだ。
腹がくちくなって、俺はようやく箸を置いた。縁側に出て、腹をさすりながら、暮れかけの山を眺める。
一年前の秋、慣れない手つきで豆を潰していた自分を思い出す。あのときは、こんなに化けるなんて、思ってもみなかった。
熱々の味噌田楽の、最後の一串を頬張って、俺はしみじみと漏らした。
「一年前の自分に、食わせてやりたいよ。……お前、ちゃんと、いい暮らしになってるぞって」
あのころは、味噌を寝かせる余裕も、こんな飯を作る気力も、なかった。それが今は、時間が育ててくれた旨みを、こうしてのんびり味わっている。
俺も、この味噌みたいに、少しは角が取れただろうか。
残りの串を平らげて、俺は満ち足りた息をついた。焚き火のそばでは、エンがまだ、得意げに尻尾を揺らしていた。




