第129話
宵さんが山に来るのは、きまって日が傾いてからだ。
夕暮れの納屋で、俺は言われるまま、鍋で温めた乳に酢をひとたらし落としていった。すると白い粒が、ふわりと透きとおった水と、やわらかな塊に分かれていく。
「ほら、固まってきたでしょう。あとは布で漉して、水を切って、塩をあてるだけ」
宵さんの手つきには、迷いがない。布の絞り方ひとつ、塩のふり方ひとつに、長く手に馴染んだ静けさがある。俺の絞った布からは、まだ乳の雫がぽたぽた落ちるのに、この人の手にかかると、そこだけ時間の流れが違って見えた。
「チーズも、保存も、突き詰めれば同じことよ。塩と、時間と……ほどよい湿り。この三つが、味を育てるの」
塩と、時間と、ほどよい湿り。俺は口の中でそっと繰り返した。要件はたった三つ。それだけで食い物が化けるなら、ずいぶん割のいい話だ。
「塩はね、腐るものと、育つものを、そっと分ける境目なの。……効かせすぎても、足りなくても、うまくいかない。ちょうどいい、を覚えることよ」
なるほど、と俺は唸った。塩梅、という言葉はきっとこういうところから来ている。多すぎず、少なすぎず……その一線を手で覚える。理屈ではなく、経験でしか届かない勘どころだ。
絞ったチーズに軽く塩をあてて、日の当たらない棚の奥へそっと置く。あとは待つだけ、らしい。急かしても、いいことは何もない……それが、この人の口ぐせだった。
干した保存食も、根っこは同じなのだと宵さんは言った。塩をあて、水気を抜き、風と湿りをととのえて、腐る隙を与えない。そうやって手をかけたものだけが、時間を味方につけて、静かに深まっていくのだと。
◇◇◇
せっかくだから、と俺は納屋の一角をまるごと片づけにかかった。
がらくたを寄せ、余った板を渡して棚を組み、湿気の溜まる隅には、細く風の通り道をこしらえてやる。ここを熟成専用の棚に仕立ててしまおうと思ったのだ。段取りさえ決まれば、あとは手が勝手に動く。
棚板の高さは、樽の背に合わせて三段。下の段は重い味噌の樽、真ん中は瓶もの、いちばん上は軽い干し物と、置く場所まで決めてしまう。使う手順から逆算して棚を切る——こういう段取りは、昔とった杵柄というやつで、我ながら妙に得意だった。
湿気のこもる隅には、拾っておいた竹をすのこがわりに敷く。床から少し浮かせてやるだけで、空気が下からも抜けていく。ほどよい湿り、というやつの理屈は、たぶんこのあたりにあるのだろう。
棚板を拭いていると、水場のほうからスイがぷかぷかと寄ってきた。
「あるじ、この納屋、隅の湿りが多すぎますわ。……ここの空気、わたくしがちょうどよく保っておきますわ」
言うが早いか、よどんでいた空気が、すっと軽くなる。じめついた重さが消えて、かわりに、ひんやりと乾いた心地よさだけが残った。
板を張り終えて、俺は仕込んできたものを一つずつ運び込んだ。去年の秋に仕込んだ味噌の樽。春の野菜を漬けたぬか床の甕。ぷつぷつと泡を立てる山ぶどうのワインの瓶。軒下で干した大根に、燻した肉。
棚に並べていくと、それだけで壮観だった。飴色の味噌、赤黒く沈んだワイン、しわの寄った干し野菜。どれも、俺が仕込んで、あとは時間に預けたものばかりだ。
樽の蓋をそっとずらすと、味噌の芳ばしい匂いが、ふわりと立ちのぼる。ぬか床の甕からは、つんと酸っぱい、生き物じみた香り。ワインの瓶に耳を寄せれば、ぷつり、ぷつりと、小さな泡のはぜる音がした。棚のひとつひとつが、暗がりの中で、静かに息をしている。
「……こうして並べると、けっこうな量だな」
独り言がこぼれた。ひとつずつは大した仕込みでもないのに、積み重ねてみれば、ちょっとした蔵の風格がある。
「なんだか、宝物庫みたいだ、この納屋」
思わずにやけた。金銀財宝のかわりに、味噌とワインと干し肉が並ぶ宝物庫。見てくれは地味だが……腹の足しになる分だけ、こっちのほうが上等かもしれない。
棚の隅で、コロが苔玉の体をふるふると揺らしていた。
「あるじ、ここのきん、いいこたちなの。わるいのはおいだして、いいきんだけ、のこしてあげるの」
菌の育ちまで面倒を見てくれるらしい。目に見えない小さな連中が、この暗がりで、じっと味を練り上げていく。その働きを精霊たちがそっと後押ししてくれているのだと思うと、なんだか心強かった。
◇◇◇
宵さんが帰ったあと、俺はもう一度、棚の前に立ってみた。
手ランプをかざすと、瓶や樽が鈍く照り返す。どれも、今日より明日、明日より一月先のほうが、うまくなっていくのだという。俺のやることは、もう何もない。……ただ、待っていればいいだけだ。
考えてみれば、こんなに気楽な仕事もない。仕込んだあとの重い工程は、そっくり時間が肩代わりしてくれるのだから。急かさず、放っておくほど、味が深まる。……なんとも、あべこべで、ありがたい話だ。
「時間が、勝手に美味しくしてくれる。……こんなに贅沢な貯金、他にないな」
銀行に預けた金なんて、増えてもせいぜい雀の涙だった。だがこの棚は、放っておくだけで、日ごとにこくを増していく。利子のかわりに旨みがつく貯金なんて、街にいた頃は聞いたこともない。
俺は棚の味噌樽を、ぽんと軽く叩いた。ゆっくりでいい。……じっくり、うまくなってくれ。暗い納屋に、かすかな発酵の匂いが、あたたかく満ちていた。




