第128話
山の斜面に、山ぶどうがたわわに実っていた。
小粒で、皮が厚くて、そのまま口に放り込むには酸っぱすぎる。去年は木の下で指をくわえて眺めるだけだったが、今年は違う。宵さんに「採れたら、持ってらっしゃいな」と言われて、俺は籠いっぱいの実を軽トラに積み込んだ。
日が落ちてから、街外れの夜カフェの扉を押す。仄暗い灯りの奥から、気だるげな声が俺を迎えた。
「いらっしゃい。……あら、ずいぶん立派に採れたのね」
宵さんは籠を覗き込んで、白い指先で一粒つまみ上げる。灯りにかざして、目を細める。その仕草だけで、もう俺よりよほど詳しいのが伝わってきた。
店の棚には、色とりどりの瓶がずらりと並んでいる。ワインに、果実酒に、瓶詰めの漬け物らしきもの。どれも、時間をたっぷり抱え込んだような、落ち着いた色をしていた。この静かな店の主なら、ぶどう一籠を酒に仕立てるくらい、造作もないのだろう。
「さあ、始めましょうか。ワインづくりはね、そんなに難しいことじゃないの。……ただ、待つのが、少しだけ気の長い話でね」
まずは、実を潰すところから。よく洗ったぶどうを大きな器に移して、手のひらでゆっくり握りつぶしていく。ぷつり、ぷつりと皮が破れて、指の間から赤紫の果汁がとろりと滲み出した。
「力任せにしないで。種まで割ると、渋くなるの。……そう、なだめるみたいに、ね」
宵さんの手本は、驚くほど静かだった。潰しているというより、実をあやしているみたいだ。俺のほうは最初、つい握力で一気に片付けようとして、やんわり止められた。要件定義を飛ばしていきなり実装に走る悪癖は、どうやら畑仕事でも抜けないらしい。
教わったとおり、なだめるように握っていくと、器の底に赤紫の海がじわじわと広がっていった。手のひらも指先も、すっかり果汁で染まっている。甘酸っぱい匂いが土間じみたこの店にたちこめて、鼻の奥をくすぐった。潰すという、ただそれだけの作業が、妙に心地いい。
果汁がたっぷり出たところで、今度は糖を加える。
「甘みが、酵母のごはんになるのよ。これが時間をかけて、少しずつお酒に変わっていくの」
言われるまま、砂糖を少しずつ溶かし込んでいく。とがった酸っぱさに、じんわりと丸みがついていった。味見をさせてもらうと、まだただの甘酸っぱい果汁だ。これが本当に酒になるのか、正直、半分は信じられない。
「今はね、まだ何者でもないの。ここから、時間だけが仕事をしていくのよ」
宵さんはそう言って、器の中をゆっくりかき混ぜた。仕込む人間の役目は、もう半分ほど終わっている。あとの大仕事は、目に見えないものたちに委ねてしまうらしい。段取りの主導権を早々に手放すのは、俺の柄じゃないはずなのに、なぜだか不思議と落ち着いた。
仕込んだ液を、煮沸した瓶にそうっと移す。口までは満たさず、上のほうに少し余裕を残しておくのがコツらしい。
「発酵すると、泡で膨らむからね。窮屈にすると、機嫌を損ねてしまうのよ」
蓋はきつく閉めず、息ができるようにゆるく。生き物の世話みたいな注意書きばかりで、俺はなんだかおかしくなってきた。
肩の上で、コロがうれしそうに揺れている。
「はっこう、コロのおともだちなの。ちいさいけど、がんばりやさんだよぉ」
この小さな菌たちが、これから瓶の中でこつこつ働いてくれるらしい。姿の見えない相棒に、しばらく留守を任せるような気分だった。
◇◇◇
持ち帰った瓶を、土間の涼しい隅に据えた。
翌日、そっと覗いてみると、液の表面にぷつぷつと小さな泡が立っている。耳を近づけると、ごく微かに、しゅわ、と息づくような音までした。菌たちが、たしかに働いているのだ。
その次の日には色がひとつ深くなって、甘い匂いにほんのり酒の気配が混じりはじめた。さらに数日で、泡は勢いを増し、香りは日ごとにまるで別ものへと移ろっていく。俺は何もしていないのに、瓶の中身が勝手に育っていくのが、不思議で仕方ない。朝いちばんに瓶を覗くのが、いつのまにか毎日の楽しみになっていた。
仕込みのあいだ、宵さんの手つきには、一度も迷いがなかった。潰す力加減も、糖を入れる頃合いも、瓶に残す余白の分量も、指が全部そらで覚えているみたいだった。
「宵さん、本当に慣れてるなあ。プロだ、これは」
まるで、何百年もそうやって仕込んできたみたいに――そう言いかけて、俺は苦笑した。さすがに大げさが過ぎる。せいぜい、この道何十年の名人といったところだろう。
瓶を挟んで、宵さんが泡を眺めている。愛おしそうに、赤い液の揺らぎに目を細めて。
「飲めるのは、数ヶ月先ね。ふふ、楽しみは、あとにとっておくものよ」
数ヶ月。ずいぶん気の長い話だ。けれど、と俺は思う。味噌も、漬物も、この山での楽しみは、たいてい待った先にこそある。急かして良くなるものなんて、ここには一つもない。
「待つ楽しみが、また一つ増えたな」
そう返すと、宵さんは満足そうにひとつ頷いて、赤く揺れる瓶を、そっと撫でた。




