第127話
台所の隅に据えた琺瑯の容器を、朝いちばんに覗くのが日課になった。
中身は、ぬか床だ。米ぬかに塩と水を混ぜ、捨て漬けの野菜くずで菌を育てて、ようやく育ってきた自家製の一床である。蓋を開けると、酸っぱいような、香ばしいような、独特の匂いがふわりと立つ。
最初はこの匂いに少し腰が引けていたのに、今ではむしろ、嗅ぐと安心するようになった。
両手を突っ込んで、底から天地を返すようにかき混ぜる。ひんやりと、みっしりとした感触が指に絡む。表面の空気に触れた層を沈め、底の層を上げてやる。こうしないと、菌のご機嫌が偏るのだと宵さんに教わった。
「発酵はね、待つことよ。でも、放っておくのとは違うの」
夜カフェで、グラスを傾けながら宵さんはそう言った。手をかけて、待つ。その塩梅がいちばん難しいのだと。
温度が高い季節は、菌が張り切りすぎて酸っぱくなる。だから塩を少し足して、混ぜる回数を増やしてやる。逆に涼しい日は、そっとしておく。そのさじ加減を、俺はまだ手探りで覚えている最中だった。
塩は、なめてみて「少ししょっぱいかな」というくらいが目安なのだという。ぬかが緩んできたら足しぬかをして、水が上がってきたら乾いた布で吸わせる。数字ではなく、指と舌で覚える仕事だ。
昔なら、こんな曖昧な工程は苦手だったはずだ。それが今は、正解の見えない加減を探るのが、妙に性に合っていた。
今日は蕪を漬けてみることにした。白い実に塩をひとつまみ擦り込んで、ぬかの中へそっと埋める。
春の野菜が、ちょうど旬だ。ほろ苦いうるいは、さっと湯がいてから。裏山で掘ったたけのこは、米ぬかで下茹でした残りを、薄く切って漬け込む。それぞれ漬かり方が違うから、埋める深さも、引き上げる時間も変えてやる。
水気の多い野菜は、床を緩めるから浅めに、短めに。繊維の締まったものは、奥のほうへじっくりと。埋める前に塩で軽く揉んでおくと、水も出にくく、色も冴えると教わったとおりにやってみる。
まるで、性格の違う三人を預かった気分だった。
半日ほど置いて、蕪をひとつ引き上げてみる。ぬかを軽く洗い流し、包丁を入れると、しゃくりと小気味いい音がした。
ひと切れ、口に放る。
「……お、いい塩梅だ」
浅すぎず、しょっぱすぎず。蕪の甘みに、ぬかの旨みと酸味がちょうど寄り添っている。噛むほどに、乳酸のまろやかな深みが舌に広がった。ただの野菜が、ひと晩でこんなに化けるとは。
うるいは、しゃきしゃきと歯ざわりが軽くて、ほのかな苦みが酒に合いそうだ。たけのこは、こりこりと弾力があって、噛むごとにぬかの香りがじんわり滲む。同じ床から出てきたのに、三者三様の顔をしている。
面白いのは、この味が、日によってまるで違うことだった。
昨日はやや酸っぱかったのに、今日はまろやかに落ち着いている。混ぜ方なのか、気温なのか、あるいは俺の気分まで映しているのか。理屈で割り切ろうとしても、そのとおりにはいってくれない。
「生き物みたいだな、ぬか床って。機嫌があって、日によって味が変わる」
思わず、容器に話しかけていた。返事はしないが、蓋を開けるたび匂いが微妙に違うのが、なんだか返事のようでもある。
元SEの悪い癖で、はじめは「毎日◯回混ぜる」と手順を決めて管理しようとした。だが、この相棒はそういうマニュアルを平気で裏切ってくる。要件定義どおりに動かない仕様、というやつだ。
そう思うと、なぜか腹も立たず、むしろ楽しくなってくるから不思議だった。
◇◇◇
容器の縁で、半透明のスライムがぷるりと揺れた。水の精霊、スイだ。
ぬか床のそばに寄り添うように漂って、その体をゆっくりと巡らせている。床の水加減を、内側からそっと整えているらしかった。
「あるじ、この床の水加減、わたくしにお任せを」
得意げに、スイが胸を張る仕草をする。
「雑味は、きれいにしておきましたわ」
言われてみれば、今日のぬか床は妙に匂いが澄んでいる。角の取れた、まろやかな香りだ。俺は「ありがとうな」と苦笑して、スイの頭のあたりを指先でつついた。ひんやりと、水の膜が心地いい。
この山に来てから、水も火も、道具までもが、やけに素直に働いてくれる。運がいいのか、山がいいのか。まあ、細かいことはいい。
夕餉の膳に、漬けた蕪とうるいとたけのこを、小鉢に彩りよく盛りつけた。炊きたての飯と、味噌汁と、ぬか漬け三種。それだけで、立派な一汁一菜だ。
蕪をひと切れ、飯にのせて掻き込む。塩気と酸味が飯の甘みを引き立てて、箸が止まらない。おかずが漬物だけでも、これなら何杯でもいける。
食べながら、俺はふと、明日はどんな味になるだろうと考えていた。
毎日、同じことを繰り返しているはずなのに、まったく同じ日は一度もない。混ぜて、漬けて、味を見て、また混ぜる。手のかかる相棒だが、その手間そのものが、なんだか愛おしくなってきている。
「毎日ちょっとずつ違う」
箸を置いて、俺は静かに漏らした。
「……生きてるものと暮らすって、こういうことなんだなあ」
窓の外は、春の宵闇だ。台所の隅で、ぬか床は今夜も、俺の知らないところで静かに育っている。




