第126話
納屋の隅に、去年の秋から動かしていない木樽がひとつ置いてある。
冬のあいだは寒さで発酵が眠るからと、そのまま手をつけずにおいたものだ。仕込んだのは、まだ薪ストーブを据えたばかりの頃だったから、もうずいぶん経つ。ゆでてつぶした大豆に、麹と塩を混ぜ、団子にして詰めた。あのときは正直、これが本当に味噌になるのか半信半疑だった。
春の光がやわらかく差し込む昼下がり、俺はようやくその樽の前にしゃがみ込んだ。
上に載せた重石をどけ、押し蓋を外す。中蓋の縁には白いものが少し浮いているが、これは産膜酵母というやつで、取り除けば問題ないと宵さんに教わっていた。
問題は、この一番上の蓋だ。
「よし、開けるぞ……重いなあ、これ」
両手をかけて、ぐっと持ち上げる。塩と時間を吸った木は、思ったよりずっしりと腕にきた。
そして、蓋がわずかに浮いた、その一瞬。
ふわり、と香りが立ちのぼった。
深い。芳ばしい。塩気の奥から、なんとも言えない甘やかな匂いが、押し寄せるように鼻をくすぐる。仕込んだときのあの、つんとして塩辛いだけの匂いとは、まるで別物だった。俺は蓋を持ったまま、思わず動きを止めていた。
中を覗き込む。
豆と麹の粒がごろごろしていたはずのそれが、飴色の、なめらかな塊に変わっている。ところどころ艶を帯びて、まるで上等な茶色の絵の具を練ったみたいだ。一年前、あんなにばらばらで塩辛かったものが、いつの間にか、ひとつにとろけてまとまっている。
「うわ……」
声が漏れた。
「これは、待った甲斐があったな。時間って、こんなに美味しくなるのか」
俺は樽の縁に手をかけて、しばらくその飴色を眺めていた。俺は何もしていない。ただ詰めて、置いて、忘れていただけだ。なのに、目に見えないどこかで、静かに、絶え間なく、何かが働き続けていたらしい。
そのとき、樽の縁で、緑の苔玉がぽふんと弾んだ。
コロだ。まんまるの目を、これ以上ないくらい得意げに輝かせている。
「ね、いいにおいでしょ? コロ、ずっと見てたんだよぉ」
小さな体を左右にゆらゆら揺らして、胸を張るような仕草をする。
「おいしくなあれって、まいにち、みてたの」
「そうか。お前が見ててくれたのか」
俺は思わず笑ってしまった。毎日、この暗い納屋の樽の縁で、この小さいのが「おいしくなあれ」と念じていたのかと思うと、なんだかいじらしくて、胸のあたりがあたたかくなる。
そういえば、仕込みのときも、麹をやたら気にしてまとわりついていた気がする。発酵はコロのお友達なのだと、前にそんなことを言っていた。
「じゃあ、これはお前との共同作業だな」
「きょうどう……? よくわかんないけど、うれしいなの!」
言葉の意味は半分も伝わっていなさそうだったが、コロはそれでも嬉しそうに、ぴょこぴょこ跳ねた。
◇◇◇
せっかくだから、味を見てみることにした。
清潔な指の先を、そっと表面のなめらかなところに差し入れる。ひんやりと、しっとりした感触。ほんの少しだけすくって、口に運んだ。
舌に載せた瞬間、俺は動きを止めた。
しょっぱい。けれど、ただ塩辛いだけじゃない。塩気の向こうから、豆の甘みと、こっくりした旨みが、じわじわと押し寄せてくる。角がまるで取れて、まろやかで、鼻に抜ける香りまで深い。仕込んだ日に舐めた、あのとがった塩の味は、もうどこにもなかった。
「……うまい」
思わず唸った。
これが、あの塩辛いだけだった豆と麹の、一年後の姿か。同じ材料が、同じ樽の中で、ただ時間を過ごしただけで、こんなに変わる。急かしもせず、ただ待った。それだけで、こうなる。
宵さんの言葉が、ふと耳の奥でよみがえった。発酵は待つ料理だ、と。急かしても、いいことは何もないのだと。あのときはなるほどと思っただけだったが、この飴色を目の前にすると、その意味が、じんわり腹に落ちてくる。
俺は樽の縁に頬杖をついて、もう一度、その香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
「一年って、長いようで、あっという間だったな」
この山に来て、かまどで飯を炊いて、畑を起こして、風呂を沸かして。無我夢中で手を動かしているうちに、気づけば季節がひとめぐりしていた。
塩辛いだけだった豆が、飴色になるくらいの時間を、俺はここで過ごしてきたわけだ。
なめらかにとろけた味噌を、もう一度、ゆっくりと眺める。
「……この山で、俺もちゃんと、熟成してるのかな」
街にいた頃の俺は、たぶん、仕込んだばかりのあの味噌みたいなものだった。とがっていて、ばらばらで、なんだか塩辛くて。それがこの一年で、少しは角が取れて、まろやかになれたのだろうか。
わからない。味噌みたいに味見して確かめられるものでもない。
でも、と俺は思う。この匂いを嗅いで、素直に「うまい」と唸れるくらいには、俺もこの暮らしになじんできたのかもしれない。
「まあ、六十点ってとこかな。俺の熟成も」
自分で言って、ひとりで笑った。
樽の縁のコロが、何がおかしいのかわからないという顔で、それでも一緒になって、ぽふぽふと揺れていた。
蓋を戻しながら、俺は決めた。今日の晩飯は、この味噌で味噌汁を作ろう。一年待った味を、まずは一番素朴なかたちで、じっくり味わってみたい。
待つと、良くなる。急がなくて、いい。
この山は、どうやらそういうことを、飯を通して少しずつ俺に教えてくれているらしかった。




