第125話
夜カフェの扉を押すと、いつものように、低く流れる音楽と、瓶と樽の匂いが俺を迎えた。
カウンターの奥で、宵さんがワイングラスを磨いている。日が落ちてからしか灯らないこの店で、彼女はいつも通り、透けるように白い顔をこちらへ向けた。
「いらっしゃい。……あなた、今日はずいぶん、いい顔をしてるのね」
そうですか、と俺は自分の頬をなでた。
実を言うと、来る道すがら、ずっと考えていたのだ。この人に、発酵や熟成のことを、ちゃんと教わりたい。ただの客として飲みに来るだけじゃ、もったいない。
「宵さん。厚かましいお願いなんですけど」
俺は思いきって切り出した。
「発酵とか、熟成とか。宵さんの知ってること、少しずつでいいので、教えてもらえませんか。うちの山、味噌も仕込んでるし、これから漬物もワインも、やってみたくて」
宵さんは磨く手を止めて、ふ、と笑った。急かすでもなく、断るでもなく、ただ静かに俺を眺めている。
「ふふ。……いいわよ。でも、言っておくけれど」
彼女はグラスをそっと置いた。
「発酵はね、待つ暮らしよ。今日教わって、明日わかるものじゃないの。何度も通って、時間ごと、味わってもらうことになるわ。それでも、いい?」
望むところだ。急いで身につくものなら、たぶん俺には向いていない。
「はい。むしろ、そのほうがありがたいです」
そう答えると、宵さんの気だるげな目が、ほんの少しやわらいだ。
「じゃあ、決まりね。あなたが来る夜は、わたしも、少し楽しみにしておくわ」
◇◇◇
それからの手ほどきは、驚くほど深かった。
塩の量ひとつ、混ぜる回数ひとつで、味がまるで別物に育っていくこと。冷えた蔵で、目に見えない小さなものたちが、何ヶ月もかけて静かに仕事をしていること。宵さんの語り口は低く、落ち着いていて、まるで何百年もそれを見てきたような迷いのなさがあった。
「大事なのは、手をかけすぎないこと」
宵さんはそう言って、瓶詰めの一つを灯りにかざした。琥珀色の液の中で、小さな泡が、ゆっくりと立ちのぼっている。
「毎日、様子を見てあげる。でも、いじりすぎない。信じて、待つ。……子育てに、少し似ているのかもしれないわね。もっとも、わたしにその経験はないのだけれど」
その言い方がおかしくて、俺は笑った。
なるほど、と手帳に書きつける。これは元SEの癖だ。段取りを整理して、勘どころを言葉にしておくと、あとで自分の手が迷わない。宵さんは、そんな俺の様子を、面白そうに眺めていた。
「まじめね、あなた。……そういう人は、発酵に向いてるのよ。菌はね、正直だから。ずぼらな人の樽は、ちゃんとずぼらな味になるの」
肩の上で、コロがうれしそうに揺れている。
「はっこう、コロのおともだちなの。ちいさいけど、がんばりやさんなんだよぉ」
そうか、お前の友達か。道理で、うちの味噌の樽が機嫌よさそうなわけだ。今度、蔵をのぞいたら、少し声でもかけてやろう。うまくなあれ、と。
気づけば、この店に通うのが、暮らしの一部になっていた。森野さん、鉄本さん、鞍馬さん。この山に来てから縁のできた人たちに、また一人、宵さんが加わったわけだ。
考えてみれば、と俺はグラスの底を見つめた。
「山に来てから、変わった人によく出会うなあ。……いや、いい人に、か」
変わっている、というのは失礼だ。みんな腕がよくて、静かで、こっちが背筋を正したくなるような人ばかりなのだ。俺みたいな元SEの田舎暮らしに、よくもまあ、これだけの人が付き合ってくれる。
街にいた頃は、名刺の肩書きでしか人と繋がれなかった。数字と締め切りの向こうに、相手の顔が見えないまま、日々が流れていった。
それが今は、どうだ。木の匂いのする森野さん、火の匂いのする鉄本さん、そして瓶と樽の匂いのする、この人。肩書きなんて誰も名乗らないのに、会うたび、暮らしがひとつずつ豊かになっていく。
運がいい、というのは、たぶんこういうことを言うのだろう。
◇◇◇
その夜も、店を出る頃には、月がずいぶん高くなっていた。
見送りに出た宵さんに、俺は礼を言い、それから、ほんの世間話のつもりで口にした。
「そうだ。今度、山にも遊びに来てください。露天風呂もあるし、夜は静かで、いいですよ」
深い意味なんてなかった。うまい飯を食わせてくれる森野さんや鉄本さんに、いつも来てもらっているのと同じ。ただ、この人にも、うちの夜を見てほしかっただけだ。
宵さんが、こちらを振り返った。
いつも気だるげに伏せられている目が、そのときだけ、わずかに輝いたように見えた。月あかりのせいだろうか。
「……夜の露天風呂」
彼女は、その言葉を確かめるように、ゆっくりと繰り返した。
「ふふ。それは、魅力的なお誘いね」
喜んでもらえたなら、なによりだ。俺は軽く頭を下げて、夜道を戻りはじめた。
背中で、宵さんがもう一度、小さく笑ったような気がした。夜のほうが生きやすい、といつか言っていた人だ。うちの静かな夜を、気に入ってくれるといい。
風が、まだ冷たさの残る春の匂いを運んでくる。
通う場所が、また一つ増えた。それだけのことが、なんだかやけに、あたたかかった。




