第124話
宵さんの店に通うようになって、ひと月ほどが過ぎた。
週に一度、日が沈んでから軽トラを転がして、街外れの小さな灯りを目指す。仄暗い店で一杯だけ付き合ってもらい、発酵だの熟成だのの話を聞いて帰る。それが、いつのまにか俺の楽しみになっていた。
棚には古いワインの瓶と、宵さん手製の瓶詰めがずらりと並んでいる。低く流れる音楽と、蝋燭みたいな照明。街の喧騒がすっと遠のく、大人の隠れ家だ。
その静けさに惹かれて通ううちに、俺はいくつか、気づいたことがある。
まず、この人には、明るいうちに会ったことが一度もない。
最初は、夜だけの店だからだと思っていた。けれど、昼間に前を通りかかっても、鎧戸はぴたりと閉じて、物音ひとつしない。約束を昼にずらそうとすると、宵さんはやんわりと首を振るのだ。
「昼はねえ……ちょっと、ご勘弁を」
そう言って、困ったように笑う。無理に聞くのも野暮なので、俺はいつも夜に合わせて通っている。
もうひとつ。宵さんは、ものを食べない。
俺が肴をつまんでいても、自分は決してそれに手をつけない。ただ、ワイングラスを傾けているだけだ。深い赤を、灯りにかざしては、ゆっくりと口へ運ぶ。それが宵さんの食事の、たぶん全部だった。
「宵さん、それだけで足りるんですか」
「ええ。わたしはね、これで十分なの。昔から、こうなのよ」
気だるげにそう言って、また一口。細い喉が、こくりと小さく動く。
俺が味噌の話を振ると、宵さんは実にうれしそうに応じてくれた。塩と時間が豆を旨みに変える理屈を、まるで我がことのように語る。食べないくせに、味のことにはめっぽう詳しいのが、なんとも不思議な人だった。
俺なんぞは山で体を動かした日には米を三杯もかき込むから、そのあまりの少食ぶりが、正直、少し心配になる。それでいて、宵さんの肌はいつ見ても、透けるように白く張りがあった。
その白さも、思えば不思議だった。
カウンター越しの手も、伏せた首すじも、蝋を流したようになめらかで、歳というものをまるで感じさせない。何年この店をやっているのか見当もつかないのに、疲れも老いも、そこには滲んでいなかった。
時間だけが、この人の周りを避けて流れているみたいだ。
その佇まいも、どこか浮世離れしていた。急ぐということをまるで知らず、言葉のひとつひとつを、時間をかけて選ぶように話す。せかせかした街にいて、この人だけが別の速さで生きているみたいだった。
ワインの瓶に指を這わせながら、熟成が何十年だ、この葡萄は何百年前の製法だと、宵さんは遠い目で語る。まるで、それを自分の目で見てきたかのような口ぶりで。
樽の中で眠る酒の、待つ時間の話。誰にも急かされず、ただ静かに味が深まっていく話。聞いていると、俺の山の暮らしと、どこか似ている気がした。
「……ずいぶん、詳しいんですね」
「長く生きていると、そういうことにも、詳しくなるのよ。ふふ」
冗談めかしたその一言を、俺は笑って受け流した。
◇◇◇
その晩、帰り際に、宵さんはグラスの底に残った赤を、そっと灯りにかざした。
ルビーみたいな色が、ゆらりと揺れる。それを眺める横顔は、いつにも増して静かだった。
「わたし、昼はちょっと苦手でね……。あなたの山の夜は、きっと素敵でしょうね。ええ、夜のほうが、わたしには生きやすいのよ」
含みのある言い方だったが、俺にはその含みまでは掬えない。
「夜の山、いいですよ」
俺は素直にそう返した。
「星がやたら近いし、風呂上がりに縁側で涼んでると、時間がとろけていくみたいで。虫の声しかしないんです。宵さんなら、きっと気に入りますよ」
「……ふふ。そう。それは、いいわね」
宵さんは目を細めて、グラスの赤をゆっくりと飲み干した。
軽トラのハンドルを握りながら、俺はぼんやりと今夜の宵さんを思い返す。
陽の高いうちには会えない。飯は食わず、ワインばかりを口にする。歳を感じさせない白い肌に、時を超えたような、あの落ち着いた佇まい。
……夜型で、少食で、やたら若く見える。
変わった人だ。けれど、嫌な変わり方じゃない。むしろ、静かで、品があって、一緒にいてほっとする。
「上品な人だよなあ、宵さんって」
俺は一人、そう呟いてハンドルを切った。
世の中には、いろんな暮らし方の人がいる。夜のほうが調子がいい人だって、そりゃあいるだろう。俺だって前の会社では、月の光より蛍光灯ばかり見て生きていた口だ。人のことは言えない。
山道に入ると、ヘッドライトの端で、火のかけらがちろりと揺れた。エンだ。
「あるじ、また夜遊びかよ! オレも連れてけって!」
「夜遊びじゃない。人生の先輩に、発酵を教わってきたんだよ」
肩のあたりで、エンが不満げに尻尾を燃やす。その小さな熱を感じながら、俺はふと思った。
今度、宵さんを山に誘ってみるのもいいかもしれない。あの夜の静けさなら、きっと気に入ってもらえる気がする。
窓の外を、春のぬるい夜風が流れていった。




