第123話
カウンターの奥で、宵さんが瓶詰めの何かを、灯りにかざしていた。
仄暗い店に、その一角だけがぼうっと明るい。琥珀色の液体の底で、細かな粒がゆっくりと舞っている。何かの発酵中らしい。
「それ、なんですか」
俺が身を乗り出すと、宵さんは唇の端だけで微笑んだ。
「果実を、時間に預けているの。……もう少しで、飲み頃ね」
時間に預ける、か。上品な人は言葉の選び方まで違うな、と俺は妙なところで感心した。
宵さんはグラスを傾けながら、発酵という営みを、低い声でぽつぽつと語ってくれた。目には見えない、小さな菌たち。そいつらが暗がりの中で、少しずつ、静かに味を作り上げていくのだと。
「面白いのよ。あの子たちは、急かされるのが、いちばん嫌いなの」
「急かされるのが、嫌い」
俺はつい、鸚鵡返しにしていた。なんだか身に覚えのある話だ。前の職場で、納期に追われて味も素っ気もない仕事を量産していた頃の自分を、うっすら思い出す。
宵さんは、赤い液面をひとゆらしして、こう続けた。
「発酵は、待つ料理よ。急かしても、いいことは何もないの」
その一言が、やけにすとんと胸に落ちた。
「……なるほどなあ」
俺は思わず唸った。手をかけるより、待つことのほうが仕事だなんて、料理の常識とは逆な気がするのに、聞けば聞くほど腑に落ちる。菌が働くその間、こっちはただ、じっと信じて待っていればいい。
待つ。その言葉で、俺はふと思い出したことがあった。
「そういえば、うちにも一つ、待ってるやつがあるんですよ」
去年の秋、冬支度のついでに仕込んだ、味噌の樽だ。塩と、潰した大豆と、麹を混ぜて、納屋の隅で重石をのせたまま眠らせてある。仕込んだ日から、もう一度も蓋を開けていない。
「あれもそろそろ……一年、経つのか」
指を折って数えて、俺は自分で少し驚いた。あの頃はまだ薪ストーブも入れたばかりで、雪もこれからという時季だった。そこから春が二度目ぐらいだ。時間の流れというのは、待っている当人が思うより、ずっと速い。
◇◇◇
と、肩の上で、もこもこした小さな重みが、うれしそうに弾んだ。
コロだ。俺の話を聞いていたらしい。まんまるの目をきらきらさせて、身をよじって揺れている。
「はっこう、コロのおともだちなの。ちいさいけど、がんばりやさんなんだよぉ」
小さいけど、頑張り屋。菌のことを言っているんだろう。土の精霊だけあって、そういう見えない働き者には、こいつも親近感があるのかもしれない。
「そうか。コロの友達だったのか、味噌の中身は」
俺が指先でそっと頭を撫でてやると、コロは気持ちよさそうに目を細めた。友達が頑張っているんだから、待つのも悪くないな、という気になってくる。
宵さんは、そんな俺と肩先のやりとりを、面白そうに眺めていた。……いや、コロは見えていないはずだ。俺がひとりで肩に話しかける変な客に映っているだろうに、この人は少しも訝しがらない。懐の深い人だ。
「一年、寝かせたのね」
「はい。正直、仕込んだきり忘れかけてました」
「忘れているくらいが、ちょうどいいのよ」
宵さんは、くすりと笑った。手をかけすぎず、そばで見張りすぎず、季節に任せて放っておく。それが、あの子たちにいちばん優しいの、と。
なるほど、放っておくのが優しさか。俺の暮らしにも、思い当たる節がありすぎる。畑も、山も、風呂の湯だって、こっちが焦って手を突っ込むより、待ったほうがうまくいくことが多い。
「……俺、案外、待つのは得意かもしれません」
半分冗談で言ったつもりだった。街にいた頃は、一分一秒に追い立てられて生きていたのに、山に来てからというもの、待つのがすっかり日課になっている。飯が炊けるのを待ち、実がなるのを待ち、雪が解けるのを待つ。
宵さんは、そんな俺をじっと見て、それから静かに言い添えた。
「発酵はね……あなたの暮らしに、きっと合う」
グラスを置く、かちりという音が、やけに大きく響いた。
「待つことを、あなたは知ってるでしょう?」
問いかけの形をしていたけれど、答えを求めている声ではなかった。もう分かっている、とでも言いたげな、穏やかな断定。
俺は、なんと返したものか迷って、結局、頭を掻いた。
「知ってる、っていうか……ほかに、やることがないだけですけどね」
自分で言って、可笑しくなる。待つのが得意な男、というより、のんびりしすぎな男というだけかもしれない。
それでも、宵さんは満足そうにうなずいた。肩の上のコロも、うんうん、と同意するみたいに揺れている。
琥珀色の瓶の中で、小さな粒が、今もゆっくり舞っている。急がず、慌てず、ただ静かに、味になっていく。
うちの樽の中でも、コロの友達が、そうやって働いているんだろう。
「帰ったら、一度、蓋を開けてみるかな」
どんな顔になっているのか。一年ぶりの再会が、少しだけ楽しみになってきた。




