第122話
仄暗い店に、低く音楽が流れている。
宵さんの夜カフェに二度目に足を運んだ俺は、前と同じ、いちばん奥の席に腰を下ろしていた。看板もろくに出ていない、日が落ちてから静かに灯る店だ。それなのに、一度来たらまた来たくなる。この落ち着きは、なかなか作れるものじゃない。
カウンターの奥、棚には色とりどりのワインの瓶と、瓶詰めの発酵食品がずらりと並んでいる。
「今日は、これを試してみて」
宵さんが、赤い一杯をすっと俺の前に置いた。透けるように白い指が、グラスの脚に軽く添えられている。
自分のグラスにも注いで、彼女はゆっくりと椅子に腰かけた。急ぐ気配のない、水のような所作だ。
「発酵とね、熟成。似ているようで、少し違うのよ」
低く、少しかすれた声だった。俺は相槌を打ちながら、いつの間にか前のめりになっていた。
菌が味を作るのが発酵で、時間そのものが味を深めるのが熟成なのだと、宵さんは静かに語る。塩の使い方、温度の勘どころ、湿り気の按配。乳酸菌がどう働き、酵母がどう息をするか。話は野菜の漬け物からチーズ、肉の塩漬け、ワインの澱にまで、澱みなく広がっていった。
「待つのはね、いちばん贅沢な手間なの。急かしても、いいことは何もないのよ」
俺はただ唸っていた。この人、どれだけのものを見てきたんだろう。
畑を起こすのも、味噌を仕込むのも、俺なりに「待つ」暮らしはしてきたつもりだ。けれど宵さんの言葉には、俺のそれとは桁の違う、分厚い時間が沈んでいる気がした。
「詳しいですねえ、本当に。……なんというか、生き字引みたいだ」
思わず、そう漏らしていた。
「発酵の話も、保存の話も、教科書に載ってないところまで、するっと出てくる。この店、長いんですか」
宵さんは、ワインをひと口ふくんで、目を細めた。
「そうねえ……ずいぶんと、長いわ」
答えは、それだけだった。何年、とは言わない。言わないのが、かえって様になる人だ。
俺は勝手に想像した。きっと若い頃からこの道ひと筋で、何十年も瓶と向き合ってきたんだろう。道理で、手の内が深いわけだ。
◇◇◇
話の合間に、宵さんは瓶詰めをいくつか開けて、小皿に取り分けてくれた。
塩漬けにした木の実、熟成させたチーズ、名も知らない葉を漬け込んだもの。ひと口ごとに、舌の上で味がほどけて、じんわりと奥へ広がっていく。角の取れた、深いうまみだ。作りたてには絶対に出せない、時間が育てた味だと、素人の俺にも分かった。
「うまい……これ、全部、待って作ったんですよね」
「ええ。手をかけるのは、ほんの少し。あとは、置いておくだけ」
宵さんは、愛おしそうに瓶の列を眺めた。
「わたしね、せっかちなのが、どうにも苦手なの。世界が勝手に急ぐぶんには、放っておけばいいのだけれど」
その言い回しが、妙に耳に残った。世界が勝手に急ぐ、か。詩人みたいなことを言う人だな、と思っただけで、俺は深くも考えなかった。
肩の上で、コロがもぞりと動いた気配がする。瓶詰めの匂いが気に入ったらしい。
「いいにおいなの……はっこう、コロのおともだちなんだよぉ」
小さな声が、耳のうしろでくすぐったく鳴った。俺は口の端だけで笑って、そっとうなずいておく。
◇◇◇
グラスが半分ほどになった頃だった。
宵さんが、ふと目を上げて、俺をまっすぐに見た。灯りを吸ったような、深い色の瞳だ。
「あなたの山……わたしたちの間で、噂になってるのよ」
「え」
「ええ。居心地がいいって」
わたしたちの間で。誰と誰の間だろう、と一瞬引っかかったが、俺はすぐに、ああ森野さんあたりの知り合い連中か、と自分で納得した。
この人を紹介してくれたのも森野さんだ。あの手の、腕はいいがちょっと変わった人たちのつながりで、俺の山がちょっとした話題になっている。そういうことだろう。
「へえ、そんな噂が」
俺は照れて、首のうしろを掻いた。
「ありがたいなあ。荒れ放題だった山なのに。まあ、風呂とか飯とか、遊びに来た人がのんびりしてくれるのは、素直にうれしいです」
「……ふふ。そう、のんびりね」
宵さんは、俺の言葉のどこかを面白がるように、口元をゆるめた。何がおかしかったのか、俺にはさっぱり分からない。
分からないまま、俺はもらった一杯を、ゆっくりと傾けた。時間をかけて育った赤が、喉の奥をあたたかく通っていく。急がなくていい味だ。
「宵さん。俺にも、こういうの、作れますかね。発酵とか、熟成とか」
「作れるわ。あなたなら、きっと」
迷いのない声だった。
「待つことを、あなたはもう知っているもの。……あとは、時間に任せるだけよ」
俺は、なんだかくすぐったくなった。褒められ慣れていないのだ、昔から。
棚のワインの瓶が、灯りを受けて静かに光っている。この一本一本の中でも、いまこの瞬間、時間がゆっくり味を育てているんだろう。そう思うと、待つというのも、ずいぶん豊かなことに思えてきた。
「……よし。今度、味噌の樽、開けてみるかな」
誰にともなく、俺はそうつぶやいていた。宵さんは何も言わず、ただ静かに、赤いグラスを傾けていた。




